岡山県北部の津山市から鳥取県に通じる国道179号線を北上すると、奥津町(現鏡野町)に入ったあたりで濃い山影を水面に映す湖が見えてきます。中国山地を流れる吉井川をせき止めた苫田〈とまた〉ダムの貯水湖です。このダムの建設に伴い、岡山県教育委員会では用地に所在する遺跡を調べ上げ、縄文時代~江戸時代の集落跡、古墳、鉄や銅・木炭の生産跡、鎌倉~室町時代の居館や城跡など21か所の遺跡を確認しました。このうち、ダムに水没する場所や湖岸道路が建設される場所の遺跡については、平成7年(1995)から発掘調査を実施して記録を作成することになりました。

 吉井川を西に見下ろす丘陵上には5つの山城がありますが、これらは築かれた場所により上流側の河内〈こうち〉城跡と久田上原〈くたかみのはら〉城跡、下流側の城峪〈しろざこ〉城跡と比丘尼ヶ〈びくにが〉城跡、その中間の山上にある東山城跡(未調査)に分けられます。麓からの高さが60mほどの低い丘陵にある河内城跡と城峪城跡では兵士が駐屯する曲輪〈くるわ〉の規模が小さく造成が不十分なのに対し、麓から100mもの高さにある久田上原城跡や比丘尼ヶ城跡では頂部とその周りに大規模な曲輪を造成しているという違いはありますが、いずれの城跡も断面がV字形をした2重の堀切〈ほりきり〉により城を丘陵から切り離すという手法で共通しています。また、曲輪の周りや防御の正面にあたる斜面には切岸〈きりぎし〉という急な崖〈がけ〉を設け、その下には斜面を切り崩した土を盛り上げて土塁〈どるい〉を築き守りを固めています。城跡の各所からは、矢や薙刀〈なぎなた〉の金具、礫石〈つぶていし〉、飲食や調理に使用した土器や陶磁器、文房具の硯〈すずり〉、銅銭などが出土し、この5つの城は室町時代前期の短期間に使用されたことが分かりました。これは県内で発掘された山城の中でも最も古い事例です。

 城峪城跡や比丘尼ヶ城跡に近い久田下原〈くたしものはら〉の川岸には、堀ノ内〈ほりのうち〉と呼ばれる場所がありました。ここを発掘してみると、幅5mの堀で囲まれた居館跡であることが明らかとなったのです。堀は3重にめぐっていて、70m四方から90m四方、さらに180×100mへと居館が拡張されたことも分かりました。長らく宅地として利用されてきたこともあって内部の様子は判然としませんでしたが、居館を取り巻くように建物が見つかり、武具を副葬した墓も確認できました。居館が築かれた室町時代、この一帯には久田荘という荘園が開かれていました。当時は、因幡・伯耆(鳥取県)の山名氏と備前(岡山県南東部)・播磨(兵庫県南部)の赤松氏が激しい抗争を繰り広げていて、5つの山城は伯耆と美作を結ぶ道筋にあったこの荘園を守るため、居館の主によって築かれたに違いありません。

 平成16年、苫田ダムの完成によって数千年にわたる人々の営みのあとは永遠に失われました。しかし、ここから出土した品々は奥津温泉街の一画に設けられた歴史資料館に展示され、中国山地の暮らしぶりを偲ばせてくれます。ハナミズキが淡く彩る出湯の里へお出かけの際は、ぜひお立ち寄りください。    

              (岡山県教育委員会2017「教育時報」811号を改稿)

 

河内城跡(岡山県教育委員会2003「河内城跡ほか」から)

 

久田上原城跡(岡山県教育委員会2003「久田上原城跡ほか」から)

 

切岸と土塁の間に集積する礫石(岡山県教育委員会2003「河内城跡ほか」から)

 

同じ間隔で掘削された2重堀切の断面(久田上原城と比丘尼ヶ城は未掘)

 

久田堀ノ内遺跡(岡山県教育委員会2005「久田堀ノ内遺跡」から)