温羅〈うら〉という異国の鬼が築いたという鬼ノ城〈きのじょう〉、「吉備津神社縁起」が伝える鬼退治伝説の舞台となったこの場所に、はじめて科学のメスが入れられたのは昭和53年(1978)のこと。以来、数10年にわたって発掘調査が行われ、標高約400mの山上に指揮所や倉庫を配置し4つの城門を構えた総延長2.8㎞の城壁で囲む、7世紀後半の朝鮮式山城であることが明らかとなりました。この城へ上るには、東麓を流れる血吸川〈ちすいがわ〉をさかのぼり阿弥陀原をへて山頂に至る道筋が想定されていますが、この血吸川の谷をふさぐように東西約300mにわたって築かれた土塁が残っています。鬼ノ城が古代山城であることを最初に指摘した高橋護さんが、その防塁の可能性を指摘していたものです。近年、宅地化が進行していることから、土塁の時期や性格について手がかりを得るため、平成12年(2000)に発掘調査を行いました。

 幅約20m、高さ約3mある土塁は、砂礫混じりの土と粘質土とを交互に積み重ねて築かれており、出土遺物から室町時代以前に築かれたものと考えられました。しかし、土塁の上流側では水を溜めていたような痕跡は認められず、下流側でも水城〈みずき〉のような防塁であることを示す施設は確認できませんでした。

 結局、この調査では土塁の築造時期や性格を明らかにすることはできませんでしたが、盛土の下から見つかった植物遺体(広葉樹の葉)について年代測定を行ったところ、300±60年の値が得られました。これを直ちに土塁の築造年代とするには疑問が残りますが、高橋さんは鬼城山の麓に設けられた首長居館を守るため古墳時代に築かれたと考えています。

 

復元された鬼ノ城の西門と城壁

 

血吸川の谷をふさぐ土塁(中央の家並み)

 

畑や宅地として利用されている土塁

 

土塁を築いた盛土の様子

 

盛土の下で見つかった植物遺体