岡山市街地の東を流れる百間川〈ひゃっけんがわ〉は、江戸時代に岡山城下を洪水から護るためにつくられた旭川の放水路です。昭和50年(1975)に改修工事が計画されたことから発掘調査が始まり、縄文時代~室町時代の集落跡が確認されました。とりわけ注目されたのは、東西3kmにもわたって広がる弥生時代の水田跡です。低いあぜで仕切られた水田や用水路と思われる溝が、洪水で運ばれた砂の下に埋もれていたのです。この水田から見つかった径5㎝、深さ3㎝ほどの小さなくぼみは稲株の痕と推定され、規則的に並んでいる様子から田植えが行われていたと判断されました。

 この「稲株痕」については発見当時から「あぜの上にも見つかる」、「密集しすぎている」といった疑問も出されていましたが、今では「稲株痕」であることを前提に導き出された「弥生時代の田植え」が教科書へ掲載されるまでになっています。その後、京都府内里八丁〈うちさとはっちょう〉遺跡や大坂府志紀〈しき〉遺跡などでも同じようなくぼみが確認されましたが、これらが「稲株痕」であるという確かな証拠は得られていません。そこで、平成22年(2010)に発掘した百間川原尾島〈はらおしま〉遺跡の「稲株痕」について、プラントオパール(イネ科植物の細胞化石)を調べてみましたが、イネはおろか他の植物のプラントオパールもまったく見つかりませんでした。洪水で運ばれた砂は「稲株痕」を残す役割を果たしたのですが、そこに存在したはずのプラントオパールを分解・消失させてしまったようなのです。一方、水田の土層断面をX線を使って観察した大阪府池島・福万寺〈いけしま・ふくまんじ〉遺跡では、攪拌された土壌の様子から代かきが行われていたものと推定されて、弥生時代に「田植え」が行われていたのかどうか決着が着く日もそう遠くはないように思われました。

 そうした中、大阪府讃良郡条里〈さらぐんじょうり〉遺跡の近世水田で見つかった整然と並ぶくぼみは、地震の振動により上部の土層が沈み込むことで形作られたと報告され、改めて「稲株痕」の信憑性が問われることとなりました。私が観察した限り、百間川原尾島遺跡の土層にこのような沈み込みのあとは認められませんでしたが、今後さらなる検証が必要です。

 

弥生水田に残るくぼみ(岡山県教育委員会1984「百間川原尾島遺跡2」から) 
 
「稲株痕」の形成過程模式図(矢田勝1995「中世後期の田植え跡について」から)
 

地震の痕跡とされる近世水田のくぼみ(大阪文化財センター2009「讃良郡条里遺跡Ⅷ」から)