勝央町黒土〈くろつち〉と美作市上相〈かみや〉の境を東西に走る道路は、江戸時代、津山藩によって整備された出雲街道にあたります。現在、その脇で発掘調査を行なっている上相遺跡では、この道路に沿うように延びる2本の切り通しが見つかりました。この切り通しの底にはいずれも細かな砂利が敷かれており、出雲街道に先立って使われた道の跡と思われます。特に、上幅9m、深さ3.5mもある南側の切り通しは、断面がV字形をした山城の堀とよく似ていて、あるいはその技術を応用してつくられたのかも知れません。

 山城が築かれはじめた室町時代(約600年前)、このあたりを支配していたのは播磨(兵庫県南部)を本拠地とする赤松氏でした。山陰の山名氏による侵略に脅かされていた赤松氏にとって、播磨へ通じるこの道は危急の際に支援を得るための重要なルートであったに違いありません。このように大掛かりな道普請が行なわれた背景には、そうした軍事的理由があったとも考えられます。また、北側の切り通しは幅が狭く、深さも浅くなっています。つくられた時期は分かりませんが、奈良時代(1300年前)に整備された「美作道」の可能性もあります。

 近頃、道路建設の槌音が聞こえるようになったこのあたりですが、かつては戦場へと急ぐ人馬の喧騒が頻々と響きわたっていたのかも知れません。

(勝央町2012「広報しょうおう」687号)

 

断面がV字形をした古道(岡山県古代吉備文化財センター2013「所報吉備54」から)