吹屋から北西へ4km、坂本川を見下ろす小高い丘の上にあるのが国の登録有形文化財、西江家住宅である。西江家は戦国時代にこの地に住み着いた地侍で、江戸時代に帰農して天領7か村を束ねる庄屋となった。宝暦11年(1762)に本山銅山を開坑したが、ここから産出する硫化鉄鉱をもとに弁柄〈べんがら〉の二次原料となる緑礬〈ろうは〉の製造に成功、以来その生産によって莫大な財をなした。

 さて、西江家住宅の見所は、何と言ってもその屋敷構えの見事さだろう。まず目を引くのは入母屋造〈いりもやづくり〉の屋根に鯱〈しゃちほこ〉を上げた櫓門〈やぐらもん〉。その右に立つ門座敷は、高く立ち上げた床下に海鼠瓦〈なまこがわら〉を貼り、窓には庇〈ひさし〉を出して高欄をまわす凝ったつくりとなっている。左に立つ長屋は馬房を並べた馬小屋で、主屋側には手習い所が開かれた1室を設ける。2階建の主屋は間口27mの長大な建物で、正面に突き出た式台玄関の妻飾りは格式の高さを物語る。内部は、左に土間を配した2列5段の10間取で、玄関から続く座敷はふすまで仕切る。この座敷に面した中庭は白州〈しらす〉と呼ばれ、かつては犯罪の裁きが行われていたと言う。主屋の裏に立つ隠居座敷は寄棟造〈よせむねづくり〉の2階建で、明治時代に増築されたもの。また、屋敷の隅には道具蔵や味噌蔵、穀物蔵、書庫といった土蔵が立つ。いずれも切妻造の2階建で、腰や隅、水切り庇、破風〈はふ〉に海鼠瓦を貼る。このうち、江戸時代末に建てられた穀物蔵には、西江家の歴史を物語る数々の資料が展示されているが、中でも弁柄の取引を通じて入手した輪島塗の漆器や有田焼の磁器は弁柄豪商の生活ぶりを偲ばせる。

 昭和46年(1951)に弁柄の生産は途絶え、弁柄豪商たちの子孫も故郷を離れていく中、西江家はこの地に留まり、大切に護り伝えてきた家屋を公開している。齢を重ねた当主夫人の思い出話に耳を傾けながら改めて邸内を見渡すと、かつての家の賑わいが眼前によみがえってくるようだ。 (岡山県教育委員会2007「教育時報」695号)

 

登録有形文化財の西江家住宅