「真金〈まがね〉吹く吉備」と古歌に詠まれた岡山県は鉄の産地として知られていますが、銅もまた古くから採掘されてきました。製錬所を意味する吹屋〈ふきや〉もそうして開かれた町の一つです。江戸時代に入ると、たたら製鉄で栄えた東城(現広島県庄原市)と、高瀬舟が行き交う成羽〈なりわ〉とを結ぶ吹屋往来が整備され、吹屋はその宿駅として大いに賑わいました。

 さて、島木川沿いに開かれた下谷〈しもだに〉地区は吹屋の玄関口にあたります。かつては吉岡銅山を経営していた大塚家が居を構えていましたが、現在は最後まで弁柄〈べんがら〉業を営んだ田村家のほか、本教寺や延命寺などが深い木立に囲まれて閑静なたたずまいを見せています。ここから吉岡銅山の勘場〈かんば、現吹屋小学校〉へ通じる道筋には、銅山で働く人々の住宅が立ち並び、たいへんな賑わいを見せていましたが、明治26年(1893)に銅山本部が坂本へ移されると町並みはさびれ、今では草木に覆われて往時の繁栄ぶりを偲ぶことはできません。

 吹屋往来をたどって緩やかな坂道を上がって行くと、赤い屋根瓦と弁柄格子で彩られた町並みが見えてきます。かつては、下町地区から中町地区にかけて商家が軒を連ね、この町並みの中核をなしていました。ことに片山家や長尾家といった弁柄豪商たちが住まう中町地区では、往来に高い棟筋を向け、1階のみならず2階にも大きな弁柄格子を飾る家々が見られます。江戸時代、往来に面した家々では通りをを見下ろすことのないよう2 階の高さが低く抑えられ、また表を弁柄で彩ることも許されていませんでした。ところが、明治時代に入ってそうした規制がなくなると、吹屋の人々は弁柄商い等を通じて蓄えた財力を背景に、2階に座敷を構えた棟の高い住宅を競って建設し、表を赤い弁柄格子で飾り立てていったのです。あたかも自由な時代の到来を謳歌するかのように。

 こうした建物も長年の風雪にさらされて往時の美しさを失っていましたが、昭和52年(1977)、全国で8番目となる重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのを契機に町並みの整備がはじまり、次第にかつての姿を取り戻しつつあります。

(高梁市2008「広報たかはし」41号)

 

下谷地区の町並み

 

中町地区の町並み