「たき川に幾百とせか経にけらし 徳治の文字の残る石ふみ」 これは寛政9年(1792)に幕府代官の早川八郎左衛門が領内巡見の途次、成羽川〈なりわがわ〉の流れが洗う高さ6m、幅8mもの大岩に刻まれた碑を目にして詠んだ歌です。長年激流にさらされ、この頃には記された碑文も読み取れなくなっていたようですが、徳治2年(1307)から500年を経た今も残る名碑に感動し、この歌を傍らの石に刻みつけました。

 笠神〈かさがみ〉の文字岩と呼ばれていたこの石碑を解読し、その価値を世に知らしめた人がいます。大本琢寿〈おおもとたくじゅ、1885~1972〉、広島県安那郡下加茂村(現福山市)に生まれた彼は、松江高等学校(現島根大学)、第六高等学校(現岡山大学)等でドイツ語教師を務めた後、縁あって有漢町(現高梁市)臍帯寺〈ほそおじ〉の住職となります。昭和5年(1930)、彼は成羽川の上流に古い石碑があることを知り興味を持ちました。それは臍帯寺にある六面石幢〈ろくめんせきどう、国重要文化財〉や板碑〈いたび、国重要文化財〉と同じ頃に刻まれたものだったからです。しかし、交通事情の悪い当時にあっては容易に現地を訪れることはできず、彼が念願を果たしたのはそれから9年後のことでした。折からの渇水で干上がった川床を枕に夜を明かし、2日がかりで文字の解読に取り組んだといいます。そうしてこの石碑が、奈良西大寺とその末寺であった成羽善養寺が中心となって成羽川の舟路を開削したことを記す、我が国最古の水運開発記念碑であり、その作業にあたったのが臍帯寺の六面石幢や板碑を製作した伊行経〈井野行恒、いのゆきつね〉であったことを明らかにしたのです。こうした研究成果をもって当時の平川村長を動かし、昭和16年に国による史跡指定を実現させました。その後、吉備考古学会の会長に就任した彼は、岡山市恩徳寺瓦経の発見、倉敷市惣願寺宝塔銘の解読、赤磐市熊山遺跡や高梁市秋庭氏五輪塔の研究など、文化財の調査・顕彰に大きな足跡を残し、昭和47年、87才を一期として世を去りました。

 昭和43年、新成羽川ダムの完成によって笠神の文字岩は水底に沈み、現在はそのほとりに複製が置かれています。臍帯寺の墓地に眠る彼はどのような想いでこの景色を眺めているのでしょう。          (高梁市2008「広報たかはし」40号)

 

新成羽川ダムのほとりに置かれた笠神文字岩の複製

 

徳治2年に刻まれた笠神文字岩の碑文