備中松山城は、鎌倉時代、有漢〈うかん〉郷の地頭であった秋庭〈あきば〉氏が大松山に城を構えたのが始まりとされる。室町時代には備中守護高橋氏や高氏、同守護代秋庭・上野・庄氏らが在城し、備中における中心としての役割を担ってきた。戦国時代には毛利氏の支援を得た三村氏が入城して備中一円を席巻し、備前の宇喜多〈うきた〉氏と対峙した。しかし、織田氏と結んだことから毛利氏に攻められ、一族が守る猿掛〈さるかけ〉城・楪〈ゆずりは〉城、鬼ノ身〈きのみ〉城・常山〈つねやま〉城は相次いで落城、備中全域を巻き込む兵乱のうちに備中松山城の三村氏は滅亡する(1575年)。

 関ヶ原の戦後、毛利氏にかわってこの城に入ったのは小堀氏である。小堀政一(遠州)は、城の修築や城下町の整備を進めるかたわら、宿所としていた頼久寺〈らいきゅうじ〉の作庭(国名勝)を手がけたという。その後、因幡から入った池田氏が5万石の備中松山藩を開き、成羽〈なりわ〉から移った水谷〈みずのや〉氏が本格的な城の整備を行なって現在の姿につくりあげた(1683年)。水谷氏が断絶した後、城主は安藤・石川と移り変わり、板倉氏の時に明治維新を迎える。幕末の藩主板倉勝静〈いたくらかつきよ〉は、開国派の老中として徳川家茂・慶喜を補佐したが、このため備中松山藩は明治政府から朝敵と見なされ、松山と呼ばれていた城下町も現市名である高梁に改めることとなった。

 明治時代に入り、備中松山城は陸軍省に移管され廃城となった。藩庁をはじめ山下にある建物は民間に売却・解体される運命をたどったが、この城は山上にあることが幸いして破却を免れた。しかし、放置された建物の多くは次第に朽ち果て、かろうじて残っていた天守や二重櫓も倒壊寸前の状態だった。

 昭和5年(1930)、高梁中学校の信野友春〈しなののぶはる〉が「備中松山城及其城下」を著すと城への関心が高まり、昭和14年には高梁町による天守の修理が行なわれ、昭和16年、旧法による国宝(現重要文化財)に指定された。岡山城や広島城、福山城など市街地の中心にそびえていた天守が次々と戦災に巻き込まれ焼失していった中、山上にあるこの城の天守は無事に戦後を迎えたが、その厳しい自然環境の中でこれをまもり続けていくことは容易なことではなく、曲輪の石垣の多くは草木に覆い隠されたままとなっていた。 

 この城跡の保存・整備に向けて本格的な取り組みが始まったのは平成に入ってのことである。学識経験者による整備委員会が組織され、平成3年(1991)には高梁市初の文化財専門職員が採用された。森宏之〈もりひろゆき〉さんだ。当初は大手門の復元を検討していたが、手がかりに乏しいことから本丸の復元へと方針を転換する。文化庁をはじめとする関係機関と協議を重ね、平成6年に復元工事の着手へとこぎ付ける。車両が通わない山上へは麓からケーブルを架設して資材を運び上げ、寒気の厳しい冬場には土壁をストーブで乾燥させるといった苦労を重ね、平成9年にようやく竣工を迎えた。2つの櫓と4つの門、それらを繋ぐ土塀を復元し、当時の本丸の姿を再現した全国でも類例のない整備となった。

 その後も、厩曲輪〈うまやくるわ〉で起こった地すべりを契機に、京都大学防災研究所と協力して文化財の防災をテーマとする国際フォーラムを開催。さらには城内の石垣をことごとく調べあげ、その保存対策をまとめた「石垣カルテ」の作成を行なうなど、城郭研究者の間でも注目される成果をあげてきた。もちろん、こうした成果は全市を挙げての支持と協力、さらには国や県による強力な支援を得てはじめて成ったものだ。

 初秋の一日、各地に残る文化財を訪ねてその感慨に耽るとき、これらが今日まで大切にまもり伝えられてきた陰に、数知れぬ先人たちの苦労があったことを心に留めていただければ幸いである。     (岡山県教育委員会2006「教育時報」684号)

 

荒廃した昭和初年の天守(信野友春1930「備中松山城及其城下」から)

 

本丸復元工事の資材を運び上げるケーブル(平成7年)

 

復元工事中の本丸腕木御門と土塀(平成8年)

 

地すべりを起こした厩曲輪下の岩盤(平成10年)

 

石垣が崩落して傾いた本丸接続廊下の基礎(平成13年)