「倭国乱れ、あい攻伐すること歴年、すなわち一女子を立てて王となす。名を卑弥呼〈ひみこ〉という」 魏志倭人伝〈ぎしわじんでん〉が伝える邪馬台国〈やまたいこく〉の時代(約1800年前)の村の跡が、勝央町小矢田〈おやた〉の丘の上にある宮ノ上〈みやのうえ〉遺跡で見つかっています。

 ここでは竪穴住居や木棺墓などが発掘されましたが、特に注目されるのは出土した土器の数々です。当時、この辺りは山陰地方との結びつきが強く、互いによく似た土器を使っていました。ところが宮ノ上遺跡では、薄手に作られた岡山県南部の土器や、板で叩きしめたあとを残す兵庫県南部の土器、兵庫県北部に特徴的な台形の土器などが一緒に見つかったのです。

 このように、他の地域から持ち込まれた土器が出土する遺跡は、近畿地方と九州地方を結ぶ瀬戸内海や日本海沿いでも点々と見つかっており、土器を携えて各地に移動する人々の姿をほうふつとさせます。こうした西日本を中心とする広範囲な人の交流が、やがて近畿地方を中心とした政治的なまとまりを形作っていったに違いありません。そして、山陰地方と山陽地方の結節点として重要な役割を果たしたこの地域には、全長92mと中国山地では最大級となる植月寺山〈うえつきてらやま〉古墳が築かれることになるのです。        (勝央町2012「広報しょうおう」684号)

 

岡山県南部の土器(左)と兵庫県北部の土器(右)