山陽自動車道のインターチェンジや岡山空港へのアクセス道路が整備され、近年にぎわいを増している岡山市津高〈つだか〉地区。その西方にある大岩山の頂きには、かつてここを采地とした岡山藩重臣池田家の墓所がありました。初代の池田武憲〈いけだたけのり、1650~1690〉は藩主池田光政〈いけだみつまさ〉の従弟〈いとこ〉にあたり、禄高四千石の番頭〈ばんがしら〉として家老に次ぐ地位を占めました。武憲はまた熊沢蕃山〈くまざわばんざん〉の娘を娶り、池田家一門の重臣として出頭人の津田永忠〈つだながただ〉と鋭く対立したことでも知られています。武憲は嗣子なく没しましたが、家老の日置〈ひき〉家や森寺〈もりでら〉家から養子を迎えて家名を繋いでいます。

 さて、東西55m、南北24mにわたり土塀で囲んだこの墓所には、武憲から6代にわたる当主夫妻のほか、武憲の義弟にあたる蕃山継明〈しげやまつぐあき〉夫妻が葬られています。平成4年(1992)、山陽自動車道の建設に先立って墓地の移転が行われた際、儒式につくられた墓石の下から墓誌が掘り出されました。一辺1m余りの花崗岩2枚を一対とした墓誌には、墓主の出自や功業を藩儒の撰文により刻んでいます。さらに、埋葬施設の調査が行われた池田森英〈いけだしげひで、1720~1780〉の墓では、一辺8m、深さ7mもある墓穴の底に、一辺60㎝ほどの座棺を二重の木枠(箱?)に納めて隙間に石灰、粉炭を充填し、粗炭で囲んだ上を三和土〈たたき〉で覆って葬った状況が明らかとなりました。棺内には刀や文房具、喫煙具などが副葬されており、上級武士の暮らしぶりを偲ばせます。

 このように大岩墓所は藩主池田忠雄〈いけだただお〉墓に次ぐ発掘例として、岡山藩の葬制をうかがわせる貴重な資料となりました。現在、墓石や墓誌の一部は山陽自動車道の南隣に移設され、かつての采地の変わりゆく姿を静かに見守っています。

(岡山県古代吉備文化財センター2019「所報吉備」66号)

 

池田内膳家略系図(□は大岩墓所に葬られた人物)

 

7代池田森英の墓石、夫人の墓石も同形同大

 

蕃山継明(熊沢蕃山の男子)夫妻の墓石

 

墓地移転に伴い掘り出された墓誌の数々、墓石の数10㎝下に埋められていたようだ

 

8代池田憲章の墓誌、当主の墓誌は大きく誌文も二面にわたる

 

初代池田武憲夫人(熊沢蕃山の娘)の墓誌、夫人の墓誌は小さく誌文は一面のみ

 

7代池田森英の墓穴、深さ7mにわたって階段状に掘りこまれている

 

7代池田森英の埋葬施設、木炭で囲った座棺の上部を三和土で覆っている

 

座棺の周りを固まった石灰層が取り巻く

 

7代池田森英墓の断面模式図

 

移設された大岩墓所の墓石と墓誌(右が6代、左が8代)