正師を知る人々にその印象を尋ねると一様に「日正上人は非常に厳格なお方であった」と答えるのである。


性格は磊落なお方であられたようであるが、お弟子方の養成には相当厳しかったようである。


身長は比較的小柄で五尺一寸(約153センチ) 色白く、姿は華奢で非常に好男子であられたが、眼元は鋭くして人を刺すが如く、口元はきりりとしまっていい知れぬ威厳をたたえておられた。


御本山で、一夜番が丑寅勤行のため猊下を御起し申すために0時にとんとんと2階へ上がって行くと、どんな晩でも猊下の方が必ず先にお声をかけられて「天気はどうだ?」と聞かれた。


弟子たちが「猊下はもうおやすみになられた」と思っていても上人は起きておられたのである。


そして風の強い晩はご自身で降りて来られて茶の間の火の用心を心がけられた。


御宝蔵近くで火災を起こすことを用心せられたのである。


だから夜中の出来事もほとんど知りつくされていた。


一夜番がちょっと怠けて風の晩などに御宝蔵の門のところで引き返すと「お前は昨夜回らなかったからもう3日やれ!」と加番を仰せ付けられたので弟子達はその都度、猊下がどうしてご存知なのかと驚いたということである。

正師はまた非常にお酒が好物で一日おきに一升お弟子に買いにやられたというから毎日五合づつお飲みになられた計算になる。
 

大正3年頃、日蓮宗統合問題が起こったことがあった。


その時、かつて法論に負けた本多が富士へ登山して日正上人の出馬を願った。


上人が参加しなければうまく行かないと考えたからである。


その時正師は


「統合はよい。けれども御本尊はどうするか」と鋭く問い詰めた。


そして浅草清島町の日蓮宗宗務院で第一回の統一大会議講演を開いた時日正上人は日蓮大聖人の御曼荼羅を中央に掛けて「日蓮本仏論」を説いた。


満堂をゆるがす大声で実に堂々と論破されたのである。

 

(右から3人目が日正上人)


「日蓮本仏論」が通れば身延の頭が上がらなくなるので、結局はこの問題もつぶれてしまった。


いかに剛氣なお方であられたかが忍ばれるのである。


60世の日開上人は常に正師にお仕えし、66世日逹上人は9才から22才まで正師にお仕えなされたのである。

(以下、次号に続く)

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