久しぶりのブログです

今回は面白い本を見つけましたのでその本の紹介です

でも本来の日蓮正宗の歴史のお話でもありますww

さて、この著者の名前、どこかで聞いたことありませんか?

 



このブログにも度々ご登場いただいているあの「波木井」さんと同名ですね〜

まさか身延の波木井さんと東京・吉原(色町)の波木井さんは結びつきませんよね〜

まぁ単なる偶然か、と思い読み進めると・・・


なんとこれがあの波木井さんの末裔ではありませんか!びっくり

この波木井さん、ご先祖様は江戸時代の中頃に甲府から出て来て大文字楼の暖簾を引き継ぎこの仕事を始めたそうです

大文字楼は明暦の大火前、まだ吉原が日本橋にあった頃からの老舗中の老舗です

それから時代はずっと下り、この著者は明治37年、現在の新吉原の廓で生まれ育ちました

 

(東京大空襲で焼ける前の大文字楼)



この写真は明治37年頃「大文字楼」で行われた「花魁道中」の写真です

 



右端の男性は当時の楼主・波木井清次郎氏
(この本の著者の父)


花魁は「柏木」

 

二人の女の子は禿(見習い新造)


左のバアさんは帯を前半に締めているのでいわゆる「やり手」でしょう

この「花魁道中」はどの廓でもできるというシロモノではありません

 

莫大な費用がかかるため花魁道中ができる廓は大籬(総籬)といって吉原でも大店、呉服屋でいえば三越や大丸、高島屋などの大店でなければできませんでした

当時の吉原でこの「花魁道中」ができる大店は「大文字楼」「稲本楼」「角海老」の三店だけ
(角海老は現在もボクシングジムでも有名)


この波木井さんはその大店のボンボンであったわけです

職種はいざ知らず、当然裕福な家庭でもあったようで父親は慶応義塾大学の維持会員でもあり当然同大学を卒業します

その後、住まいは上野に移り上野、浅草、吉原界隈が行動半径だったようです

その頃の御当代は日応上人

当時の上人は晴天毎に繁華街(上野・浅草)にお出掛けになられて布教演説をされたわけですから、この波木井さんも拝聴したかも知れません

ですが残念ながら日応上人の教化に浴することはありませんでした

関東大震災のあとは池上本門寺の管主を自宅に呼んで大震災の慰霊を行ったりしています

 



その後の吉原細見(地図)を見ますと、東京大空襲で焼かれた後、昭和33年の「赤線廃止令」の時にはすでに空地になっています

その後の消息はこの本では分かりません

いずれにしても昭和33年の頃には長年続いた吉原屈指の大店が姿を消してしまっているのです

タラレバの話ですが


もしあの当時、日応上人の教化に浴することができれば、富士の信仰に戻ることができていればまた違った運命があったかも知れません

歴史好きの私としては、もしも「大文字楼」が今も存在していたら


登楼して(遊びに行ってw)色々とお話を聞きたいなぁ〜なんて考えた一冊でした(笑)

波木井一族は今何処に・・・

※大文字楼の跡は現在吉原公園になっております



#吉原公園




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