それでは創価教育学会を創設した牧口常三郎とはどんな人物だったのでしょう?

いわゆる『戸田門下生』と呼ばれる(私の母など)人達はまだ存命の方もいらっしゃるでしょうが、戦中に壊滅した『牧口門下生』なる人々は存在しておりません。

池田センセーですら、会ったことがない方です。

氏の著した『創価教育学体系』などを読んでもピンと来ない人が多いのではないでしょうか?

肖像写真を見ると、口をへの字に結び、いかにも『教育者然』としております。

 



以前も書きましたが、牧口先生を折伏した人物は、同じ教育者だった三谷素啓氏(目白学園・校長)です。

(この三谷素啓氏を折伏したのが総本山・第56世日応上人と書いたのは前回のとおりです)


 

 

【牧口氏が入信に至った経緯】

ある時、経済誌の取材で牧口氏の考え方などを取材した記者・藤本秀之助氏が、三谷氏に牧口氏を紹介したのが始まりでした。


当時、三谷氏は東京の信徒有志で作った直達講(日蓮正宗)の講頭をしていました。


藤本氏もまた直達講の信徒でした。

当時はまだ法華講連合会などは無く、各寺院の信徒の小さな集まり(講)でした。

私が所属する妙光寺も草創の頃は「三ツ木講」や「蛇窪講」「京橋講」などの小さな講の集まりでした。

(現在は1区~11区まで区分けされています)


牧口氏が入信したのは昭和3年の春、その年の秋に戸田城外氏も三谷氏に折伏され日蓮正宗に入信しましす。

妙光寺に三谷氏が御所持されていた日応上人御図顕の常住御本尊が所蔵されていますが、その御本尊の授与書きには『大正7年3月18日 日蓮正宗東京信徒 三谷素啓』とあります。

三谷氏はそれ以前に入信したことが分かります。

また「東京信徒」とあることから、まだ「直達講」を立ち上げる前だったのでしょう。


 

ここから話しがややこしくなりますが、日蓮正宗の近代史が詳しい方なら理解も早いはずです。

妙光寺初代住職は冨士本智境師で、冨士本師の姉弟子は佐野広謙尼(日蓮正宗始まって以来の尼さん)

 

【冨士本智境師】

             【佐野広謙尼

 

 

佐野広謙尼と冨士本智境師は元々「完器講」の在家僧でしたが、その後、日霑上人代に正宗に帰服しました。

 

完器講とは江戸末期、越後(新潟)に生まれた堅樹院日好の流儀を信ずる一派が起こした講の名前です。

 

日好は本迹一致派(日朗門)から転向し、一時は大石寺に帰伏しましたが、我流を主張し、大石寺教学に傾倒しながら、『折伏をしないのはけしからん!』と大石寺を誹謗、攻撃しました。

 

しかし、広謙尼は師僧であった日好の死にざまに疑問を抱いいた後、改心して大石寺の門に入りました。

 

 

日蓮正宗では女性は出家できませんが、広謙尼は帰伏僧ということで特別に日霑上人のお弟子に許され、「妙寿日成」という名を賜り、九州に10ケ寺を建立しました。

 

 

三谷氏はその完器講に所属していました。

 

 

その頃の牧口氏は田中智学氏が作った「国柱会」に入っていたのです。

※国柱会・・・元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。

田中智学の弟子が山川智応。

 

正宗史にはあまり関係ありませんが、戸田先生の講演集など読んでいると、時々出てきますので名前ぐらいは覚えといてください。(笑)

~ 続く ~ 

 

 

【創価学会のみなさまへ】

 


創価学会発行のこの本尊は第六天魔王の棲家です。


これを拝むと
家庭不和、子供の非行、倒産、破産、失業、経済苦、うつ、引きこもり、難病、奇病
などの現証がたっぷりと涌き出てきます。


すみやかに近くの正宗寺院に持って行き
悪魔払い、じゃなかった

謗法払いをしてもらいましょう。

Its gets better !


 

【法華講のみなさま】

日蓮大聖人様に信伏随従
御法主上人の御指南を遵奉しましょう。

(つまり信伏随従の使い方にご注意を!)

 

 

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