翌、明治19年。
日応師は大阪にて半年間の布教活動を開始します。
つまり大阪地方のテコ入れです。
まだ足並みがそろっていなかった各末寺の寺檀を統合して大阪布教会を創設します。
これが後の東京での布教活動する『法道会』の基礎となります。
その後、小梅・常泉寺の住職がお亡くなりになり、
後任に日応師が就任します。
時に38才。
その後の3年間、日応師の東京での活躍は言うまでもありません。
“本宗独特の教学を宣揚し、本堂の修理改築など行い、
大いに寺院を荘厳する”と記録にあります。
*この頃、堀日亨師(後の59世御法主)が日霑上人のもとに得度します。
明治22年、日霑上人の命により日応師は大石寺に上ります。
5月21日、法を血脈相承され総本山第56世の御法主となられ大石寺を継承されました。
御歳41才。
*この年の7月1日、日開師(後の60世御法主)が日応上人により得度します。
8月には大石寺内に布教会を設け、自らが布教会会長となられ布教活動に拍車がかかります。
まず東京の中心寺院である常泉寺を出張所とし大石寺布教会報を執筆し創刊します。
また人材育成のため大石寺内に布教会学林を設立しました。
この年は大日本帝国憲法が発令され、東海道線の東京・神戸間が開通した年でもあります。
翌23年には布教委員登用のための「大試験演説会」を浅草の鴎遊館にて開催しました。
今でいう「全国布教師」の登用試験でしょうか。
3日間を通じて数千人の聴衆があったとあります。
まだ他宗他門ではこのような演説会などは行われず、熱気を帯び注目を集めた演説会だったようです。
このとき登用された委員が、各地に派遣され宗門の教学が大いに復興する元となりました。
翌24年、日応上人自らも東北〜関西〜四国〜九州と精力的に全国を御巡教に周ります。
この年、上野〜青森間の鉄道も開通した年でした。
このように鉄道が開通し交通が便利になると同時に全国を飛び回った御様子が想像できます。
また外にあっては当山の教義に何かとイチャモンを付けてくる、
京都・要法寺の日守を徹底的に破折します。
(要法寺は日目上人の弟子の日尊が建立した寺院)
以前も書きましたが、この頃は『日蓮宗興門派』と云い、教義が違う八つの寺院の連合体でした。
その昔、要法寺は大石寺と通用(往来や連携)があり、
第15世日昌上人〜23世日啓上人までの9代は要法寺出身の御法主でした。
それが明治に入り日守の代になると『末法観心論』なる悪書を著し、大石寺に対し色々と難癖を付けてきたのです。
日応上人は『弁惑観心抄』を著しその邪儀を粉砕しました。
似たような事件は江戸時代の日寛上人の時にもありました。
やはり同じ要法寺の住職である日辰が『造仏論義』『読誦論議』なる邪義を唱え、
それに対し日寛上人は『末法相応抄』を著し破折した経緯があります。
(通称『造読論義』という。本尊に釈尊の仏像を加え法華経は全品読むという大聖人様の教えとは違う邪義)
日応上人は日寛上人以来、またまた邪義を唱え出した要法寺に対し二度目の鉄槌を加えたのです。
いずれにしても日興上人様が相伝された本門戒壇の大御本尊を有する大石寺が、
八本山連合の一寺院に過ぎないという現状を打破しなければなりません。
この日蓮宗興門派からの『分離独立』運動が日応上人の三大事業となって行きます。
明治26年、静岡県沼津市にあった妙光寺が品川の三ツ木村に移転してきて、
向島・常泉寺とならんで東京の中心的寺院に発展していきます。
沼津市は日応上人の御母堂のお生まれになったところです。
これも何かの因縁でしょう。
翌、明治27年にはその静岡、愛知地方を御巡教。
またその翌年の明治28年には関西〜九州地方を御巡教、
29年には東京〜東北地方へと精力的に全国を掛け巡ります。
明治30年には長年の懸案だった日蓮宗興門派からの分離独立請願書を再度内務省に提出します。
翌31年には上人の最大の構想であった『首都東京への弘教』が開始されました。
まず本郷の西片(現在のビッグエッグの東側)に法道会を設立し、
浅草や下谷(秋葉原東側)深川(都営線森下駅付近)に布教所を置きました。
(この年に日淳上人が伊那市に御誕生になります)
明治33年は前記の分離独立運動に動きが出てきます。
なんと大石寺の分離独立の前に日蓮宗興門派が日蓮宗本門宗と改称することが
いとも簡単に承認されてしまいます。
大石寺としては一日でも早く独立しなければなりません。
内務大臣宛に大石寺の分離独立の追願書を提出します。
内務省もやっと重い腰をあげ大石寺と他の七山との宗旨、血脈、寺格の違いなどを調べます。
その後も分離独立後の宗制寺法・布教方針・学林(教育)組織などなど多岐にわたり答申を求めてきます。
日応上人は宗内に対策本部を置き、宗制宗規を作り、
学林を設立し内務省に何度も具申します。
そして9月18日に分離独立が認められ、
晴れて『日蓮宗富士派』と公称します。
時に日応上人52才。
明治9年の合同から実に22年の歳月が流れておりました。
日応上人の御事跡の最大の功績はこの分離独立運動でしょう。
分離独立が認められたその当日、日応上人は全国に10の布教区を即座に設置します。
いかに折伏弘教が念頭にあるかがうかがわれる対応の素早さです。
(この年に創価学会二代会長・戸田城聖氏が生まれます)
また他宗に対しても法戦を仕掛けます。
翌34年には浅草・伊勢平樓において顕本法華宗の本多日生と公開問答しこれを論破します。
【顕本法華宗の本多日生】
この問答は東京の他宗の教団の耳目を集め驚愕とさせました。
その翌月には愛知、石川、京都、大阪、兵庫〜九州へとまたまた御巡教に東奔西走します。
同35年には法道院が深川の東元町(現在の江東区森下)に移転し、
いよいよ首都東京の大折伏戦が本格化していきます。
(この年に日達上人が東京にお生まれになります)
時には日応上人の折伏により37人が同時に入信するという獅子奮迅の戦いぶりです。
しかし、法道院とはまだ名ばかりの借家住まいの法城で、3円50銭の家賃にも御苦労されたようです。
『深川に蛸一匹の浮き沈み』
~ 以下、次号に続く ~