昭和20年8月15日、終戦を迎えます。
それから約7年後の昭和27年4月27日。
総本山大石寺では翌日の“立宗開教七百年慶祝大法会”を控えておりました。
驚くことに塔頭の本住坊になんと小笠原が御登山して滞在していたのです。
小笠原は水魚会を牛耳りその後は『世界之日蓮社』なる怪しげな会まで立ち上げそこの主幹をしておりました。
そしてこの『神本仏迹論』をいう邪義を振りかざし、時の軍部にこびへつらい日恭上人を攻撃した罪により擯斥処分(つまりクビ)
になっていましたが、今回の大法要の特赦(特別に過去の罪が許される)により僧籍復帰していたのです。
しかも岐阜県美濃市の本玄寺の住職にまでなっていたのです。
(`o´)ノあちょ 信じられない大甘な処分ですなぁ~)
当時、戸田会長(二代目に就任)は『神本仏迹論』を徹底的に糾明するように、と学会青年部に指示を出していました。
青年部長の辻武寿をはじめとする牛田寛、龍年光、石田次男、池田大作(3代会長)森田一哉、北条浩(後の4代会長)
の7名の幹部と志願者40名、計47名が小笠原を糾弾する実行部隊が結成されました。
偶然にも赤穂浪士を同じ人数です。
その計画とはこういう手順です。
まず辻青年部長の辻が直接『神本仏迹論』を糾弾して小笠原から謝罪状を取る。
がしかし拒絶された場合は小笠原を強引に牧口会長の墓(墓は大石寺にあります)まで連れ出し更に糾弾する。
最初の辻の糾弾で事が収まらなかった場合、次の強攻策に出た時の作戦が『狸祭り』でした。
4月27日夜8時半、用意周到、準備が整ったところで柏原ヤスが小笠原に面会しこう切り出します。
『学会青年部があなた様から法門をおうかがいしたいと言うので夜分にうかがいました。
こちらが青年部長の辻です』と丁重に挨拶をしました。
その夜の小笠原は随分と愛想がよく
『ああ、そうですか、どうも遠くから来て疲れてな、ちょっと奥に引っ込んで居りましたところじゃ』
辻は小笠原の前に正座するといきなりこう切り出しました。
『小笠原さん、あなたの神本仏迹論は当宗の教義ですか?!』
小笠原『今でもそういうことはある!』
辻『神本仏迹論は本当に正しいのですか?!』
小笠原『そういうことはあるのじゃ!!』
辻『確かに大聖人の教義のなかにあるのですか?!神本仏迹論は正しのですか!』
小笠原『君たちは何しに来たのじゃ?!教えを聞きに来たのならそれらしくしたらよかろう!
教えを聞くふるをして法論にきている!
それならそれらしく改めて来たらよかろう!
君らには話しをしない!』
辻『はじめから法論だ!神本仏迹論の法論をしたいから会ってくれといっても会わぬだろう!
神本仏迹論は何を根拠とするのか!』
小笠原『御義口伝のなかにある。神力品を読んだことがあるか!』
辻『御義口伝がなんで神本仏迹論かはっきり根拠をしめしなさい!』
小笠原『神力品の神力がそうじゃ!相伝のなかにもある』
辻『神力がなんで神本仏迹論か、久遠元初の御本仏が迹で十界の中の神が本か、
御本尊が迹で神が本などと、どこの仏法にあるものか!神本仏迹論を誤れ!!』
さてさて、狸祭り事件の始まりです。
~以下、次号に続く~