「創価教育学会々員の中には多数の現職小学校教員あり、

この教説は日蓮宗にいう曼荼羅の掛軸をもって至上至尊の礼拝対象となし、
他の一切の神仏の礼拝を排撃し、さらに謗法払いと称して神札、

或いは神棚・仏壇などを撤去焼却し、はなはだしきは信者になると
妻が夫の留守中に謗法払いをしたため離婚問題にまで発展した」

これが創価教育学会に対する弾圧のきっかけとなりました。
 

つまり牧口会長の強い折伏姿勢(これを強折:ごうしゃく:といいます)と

神宮に対する不敬な行動が軍部の反感を買い、

特高警察も創価教育学会との蜜月関係を破却して取り締まりに乗り出しました。

昭和18年に入りまず皮切りに幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕。
同6月には陣野忠夫、有村勝次が行き過ぎた学会活動(布教)をしたという容疑で逮捕。
翌7月にはとうとう本命の牧口会長を初め戸田城聖も逮捕されました。

逮捕された場所は伊豆の下田。
牧口会長は折伏旅行で当地を訪れていたときに逮捕されました。
 

特高警察はずーっと尾行してたんですね。

この事件で逮捕拘留された創価教育学会幹部は21名。
罪状は『不敬罪』と『治安維持法違反』

その後牧口会長は1年4ケ月後の翌19年11月、74才で獄死します。
 

死因は栄養失調。
 

74才の老人には獄中生活はかなりキツカッたでしょう。

 

(当時の創価教育学会幹部 堀米尊師をはさんで牧口と戸田)

一方、大石寺でも宗史に残る大事件が起きます。
日本の敗戦が色濃くなってきた昭和19年12月、つまり終戦8ケ月前です。

陸軍の兵隊用宿舎に客殿や書院を提供せざるをえなくなりました。
将校は書院に、兵隊は客殿にと寄宿します。

そして書院に駐屯する将校が富士宮浅間神社の神札を祀ってしまったのです。

この頃のお話を我が妙光寺の土居崎住職から座談会の折、

回顧録でうかがったことがありますので掲載しておきます。

『私は昭和18年、名古屋の妙道寺より総本山に上がりました(昔は各末寺で弟子をとっていました)
その時、本山には農耕隊が書院を接収していました。
書院には農耕隊が神札を置いていたかもしれませんが、

本山の管轄外(手が及ばない)だったため中の様子は分かりませんでした。
書院以外のところでは神札は見ていません。』

昭和20年6月、終戦2ケ月前。なんと駐屯する兵士の火の不始末から出火。
書院、客殿はもちろんのこと、さらに六壷と火の手は延び、

とうとう対面所にも火が回り大奥まで焼け落ちてしまいました。

時の御法主、第62世日恭上人はその責任を御一身に背負われたのか、

火中に無念の御遷化(ごせんげ:おなくなりになること)をなされました。
 

ご存知のように大石寺は住宅地のように建物が密集している訳でもなく、

また大奥(御法主上人のお住まい)も高層住宅でもありません。
逃げようと思えばどこにでも逃げられます。

その証拠にこの火災では負傷した人すらいないのです。

しかし血脈法水を継ぐ御法主上人が焼死(自決)なさったという事はまぎれもない事実なのです。
堀日亨上人はこの事件のことを“不祥事”とされています。


その時のご様子は『小説・人間革命』第一巻に詳しく書いてありますので抜粋で載せておきます。

『焼けただれた管長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、

身を火焔にみずから焼き、端座(たんざ)したままの姿であられたのである。
 

しかも、正装であり、袈裟をかけたお姿である。
 

そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵にむかっていた。
 

猊下はお逃げになることは、いくらでもできたのである。
 

その証拠に、数百人の罹災(りさい))者の中で、負傷者は一人もなかった。

客殿の焼亡とともに、なにゆえに、わが身をお焼きになったのか。
 

凡庸(ぼんよう:凡人のこと)の推察は、さしひかえなければならない。
~中略~ 
彼(※戸田)は、日恭猊下は一国謗法の苦を、御一身にお受けなさったものと拝察した。
ありがたいきわみではないか、と思った。』

 

         総本山第62世 鈴木日恭猊下

 

~ 以下、次回に続く ~