11月20,21日は新暦に換算しますと大聖人様御入滅の日にあたります。




大聖人様は生涯、二度にわたる島流しの刑(遠流とか流刑ともいいます)を受けられました。

御歳50才の時受けられた流難、極寒の佐渡島ではかなりダメージを受けました。

通常、佐渡島への遠流→凍死を意味します。
龍ノ口で斬首できなかった平左衛門尉は自然の力を借りて凍死を狙ったのです。

今のような暖房器具がない厳冬の北国の生活を想像してみてください。

またそのお住まいは、死人を捨てる場所にある、堂とは名ばかりのアバラ屋で、床は板間は合わず、壁は朽ち果てて隙間からは雪が入ってきて部屋の中に雪が積もってる。
そのなかで蓑を着てすごしてる。と

このような極寒の地で3年半をお過しになります。つまり3回の冬を越したのです。

流刑地の佐渡島から御赦免になって身延山に入られてからの大聖人様の健康状態は徐々に悪くなっていきます。
その後お住まいになった身延山も厳しい冬が待っておりました。

秋元御書には『11月より雪が降り積もり3メートルにも達し、壁は氷のように凍っている。雪深くて道も通行止めになって訪れる人も途絶えてしまった。まるで八寒地獄のようだ』とあります。

そして下り腹(下痢)が止まらなくなり、容態もどんどん悪化していきます。

しかし医者であった四条金吾の薬のおかげで、健康状態も快復し、常陸(茨城県)の温泉へと湯治に行くことになりました。

弘安5年9月8日、約9年間過ごした身延山を出発し9月18日、池上兄弟の館(東京都大田区)に到着しました。

このお振る舞いに対し総本山第56世日応上人は『宗祖大聖人が身延山に住むこと9ケ年なり。これは天竺の霊鷲山を超え、天台山にも劣らないことは無論であるが、地頭の波木井実長の性格や薄い信仰心は、必ず謗法を企ててついには魔境となることを予知して、常陸の温泉に湯治に行くとの方便を使い、生前にこの謗法の地を去ったのである』

とご指南されております。

大聖人様ご自身も『地頭の不法ならん時は我も住むまじ』(美作房御返事)にハッキリと仰っております。

池上邸にお着きになった大聖人様のところへそれを聞いた鎌倉の信者さんたちが続々と集まってきました。

また噂を聞きつけた他宗の坊さん、天台宗の二階堂伊勢法印が『日蓮をやっつけるBIGチャンス!』とばかりと仲間や弟子50人あまりを引き連れて押しかけ、法論を仕掛けてきたのです。

しかし大聖人は『卿公、相手にしてやれ!』と日目上人様を指名し対論させました。

日目上人様は『大聖人様の御説法をもらさず聴聞した』『どんな難問でも答えられる』と太鼓判を押された日蓮正宗の超エースです。

たちまち10問の問答は日目上人様に打ち砕かれてしまい伊勢法印側は惨敗!
時に日目上人様23才!

伊勢法印もカッコ悪かったでしょうね~ 
仲間や弟子50人の前で23才の若僧に打ち負かされたのですから、、、

日蓮正宗では問答が得意なお弟子さん、たとえば日尊上人や三位坊などが他にもいましたが『問答第一』と云われるのは日目上人様なのです。

しかし兄弟子の日興上人様はもっと凄いのです。
大聖人様が伊東に流罪中お供していた時、熱海の真言宗の坊さん、行満を折伏して改宗させてしまうのです。
時に日興上人様16才!!

日目上人様の問答が終わると大聖人様は弟子、檀那衆の前で『立正安国論』の講義をせれます。

これが大聖人様の法門は『立正安国論に始まり立正安国論で終わる』と云われるゆえんです。

~(以下、次号に続く)