その激痛は突然来た
いきなり歩く事も困難になった
地獄 (ヘル) に近い(ニア)という
まことしやかな話も
ごもっとも と思ってしまう
とてもじゃないが
騙し騙しで凌げる痛みではなかった
ほんの1メートル先が途方もない距離に思えた
例えるなら
大腿骨の先端が鋭利な槍になって
一歩歩く毎に
骨盤の内側にザクザクと刺さる感じ
腰のヘルニアなのに
持っていかれたのは右足だった
這いずるように近くの整形外科へ行った
現れたのはは、片岡千恵蔵のような
コワそうな高齢の医師
体軀も大きい
表情から感情を読み取るのは
もはや不可能な域に達した
厚顔の老人だった
レントゲン検査の結果
「あんたこの状態でよく一人で来れたね」
と変な感心をされたあと
椎間板ヘルニアだと聞かされ
治療法の説明を受けた
ブロック注射を打つ
患部の背骨の間に注射するそう
本気で言ってるのか?
想像しただけで恐ろしかった
だが背に腹は代えられない
それで治るならやってくれ
僕は半ケツ状態で診察台に横たわり
覚悟を決めた
奥から現れた千恵蔵の手には
黄色みがかった液体の入った注射器
その注射器を持つ手はまさに老人だ
プルプルと震えている
リアル志村けんのコントだ
まさかウケ狙いではないだろうが
一瞬疑った
ちょっと待ってくれ と思った
せっかくできた覚悟が揺らぐ
僕の側についてくれた
ジャクリーンケネディ大統領夫人似の看護師さんに
「あれ、あれ大丈夫なの?」
思わず小声で訊いてしまう
ジャクリーン夫人は
「大丈夫ですよ?」
とにこやかに言う
中年の彼女はベテランのようだ
この震える手も見慣れているのだろう
あまり見てはいけない
気にしてはいけない
見れば怖くなるだけ、と
彼女の顔にそう書いてあった
やがて千恵蔵の左手の指が
僕の背骨の触診を始めた
何番目かを数えている
本当にやる気だ
その指がある一点で止まった
グリグリと確認している
来る!
思わずジャクリーン夫人の手を握っていた
針は皮膚を通過し
背骨の間に入り プツッと
軟骨を刺したような感触があった
呼吸すら忘れていた
「ほら、終わりましたよ?」
ジャクリーン夫人が子供をあやすように
肩のあたりをさすってくれた
それで全身ガチガチにリキんでいた事に気付いた
これくらい普通の事、と言いたげに
「痛くなかったでしょ?」
「あ、そうですか」
訳の分からない返事をしてしまった
ブロック注射後は眠くなったりと
危険だから
しばらく寝て行くようにと言われた
どこか病室とかで寝るのか?
と思ったら
診察室を出て待合室へ
ここで と案内されたのは
待合室のただの長椅子だ
エッ?…ここ? 本気か?
( 本気と書いてマジと読む )
ここで寝ろって?
戸惑いながらも
どっこいしょと寝転がる
毛布を1枚掛けられた
夕方の通院患者の多い時間帯だった
狭い待合室の長椅子を
ひとつ占領して伸びている男を
みなさん直視はしない
見たくもないモノが
計らずも視界に入ってしまった
そんな様子で目を逸らす
ジッと見られるよりはマシか、と思った
こっちだって
好きでこんなところに転がっている訳じゃない
衆人環視の中で
グーグー眠る神経は持ち合わせていない
10〜20分は死んだフリをした
それが限界だった
「もう大丈夫そうなんで帰ります」
受け付けでそう言うと
大柄な老婆が現れて
「遠慮しないでちゃんと寝ていきなさいよ」
と言う
どうやら千恵蔵の奥方らしい
素顔のプレデターが出た と思った
「いやほんと近いから大丈夫なんで…」
やっと言えたのはそれだけだ
歩いてみると
痛みは2〜3割軽減された感じだった
帰り際、受付でおねいさんが
歩くの辛かったらこんなのもありますよ?と
カウンターの下に置いてある
大きな段ボール箱を指差した
それは
シルバーカー?だった
半笑いで断った
結局、杖を1本貸し出してくれた
シルバーカーは1万円くらい
だったか?
意外と安い! と思ったのを覚えている
会計時に薬を出してくれた
痛みが酷い時に、と痛み止めの注射器を
何本もくれた
だが注射器だと思ったソレは
ケツから直接薬を入れる注射器状の浣腸器みたいな物だった
要するに注入量の多い座薬だ
楽になりたい その一心で2本程使用してみたのだが
情けなさ過ぎて涙が出そうだった
あの情けなさは未経験のものだった
その座薬に大した効果はなかった
通院の治療内容と言えば
機械で引っ張られて腰を伸ばしたり
電極みたいなのを付けて
低周波だか高周波マッサージ
みたいなのや
ウォーターベッドに寝て振動がくるヤツ
このウォーターベッドは気持ち良かった
あまりに気持ち良くて寝てしまいそう
ジャクリーン夫人に
「お金は払うから延長してください」
と頼んでみたが
「そういうサービスはありません」
と断られた
腰を伸ばすのは解るとして
低周波マッサージみたいなヤツは
患者本人の感覚では
効いてる感じがしない
「コレやっても意味ないのでは?」
プレデターにそう言うと
「じゃもっと強くしてあげますよ」
言うなりツマミを捻る
100ボルトの電気に触れた時の
電撃にも似た強烈な痺れが来た
「イタタタタッわかった ちょっとわかりましたッて」
プレデターも他の看護師さん達も
居合わせた他の患者も笑っている
中には爆笑している者もいる
もはや手遅れではあったが
かかる病院を間違えたか?
その時になって思った
あの時はとにかく早くなんとかしたくて
口コミとか評判とか
確かめる余裕もなかったしな
まぁみんな楽しそうだったからいいか
と思うことにした
そんな通院治療を続けたが
結局あと2回のブロック注射を打った
2回目を打って痛みは7割程取れていた
そして3回目は
僕の方からやってくれと頼んだ
ブロック注射は癒着とかのリスクがある
とかなんとかで
あまり打つのも良くないらしい
だから1回打つ毎に様子見していたのだ
だが、先の2本で確実に痛みは軽減されていた
「もう1発、もう1発で行ける気がする
頼む先生、やってくれ」
まるでジャンキーだ
千恵蔵はううむと初めて考え込む表情を見せたが
わかった と了承してくれた
そしてまたあの震える手でプツリ
3回目ともなると
僕ももうビビリ散らかす事は無く
ジャクリーン夫人の手を握る事もなかった
職場などで、僕が痛そうにしていると
腰?
ヘルニア?
と人に聞かれた
話してみると以外にもヘルニア経験者は何人もいて
今時のヘルニア治療は
あんな触診でいきなりブスリなんて事は
やらないらしい
手術で治った人が多かった
よくぞご無事で
という感じで聞いてくれた
どうやら
千恵蔵はあまりにもベテラン過ぎた
昔ながらの手法を貫いたのだ
医師ではあるが
職人 という意味では
納得してしまう自分もいた
実際、僕の思惑どおり
あの3発目で完全に痛みは無くなった
誰も見ていない事を慎重に確認し
スキップしてみたりもした
嗚呼、素晴らしい と思った
歌が出そうだった
それ以降 重い物を持ち上げる時は姿勢に注意するようになり
腰に爆弾あるから と
なるべく重量物は手下に持たせる
という姑息な手段もいとわなくなった
たが皆、任せろ任せろと言ってくれた
それからほんの2〜3年後
その整形外科の前を通りかかると
綺麗に無くなっていて、
代わりに真新しいモダーンなアパートが建っているのを見た
そうか、結構なご高齢だったからな…
と勝手に納得したのだった
威厳ある老人の
あの震える手で迫って来る注射器を
しばらく忘れられず
どうしても
思い出し笑いを禁じ得なかった
先日、片付けをしていたら
あの痛み止め浣腸の残りが出てきた
忌々しいのですぐさま捨てた
あんなに数ヶ月も長期間通院したのは
後にも先にも初めての事だったけれど
腰爆弾の信管は抜かれ
今はすっかり
平穏な日々を過ごしている
あの激痛を振り返る度
健康ほどありがたい事はないな
と、思うのだ