空海の風景① | 占いサロン彩華の庵SAIKA 豊前市

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福岡県豊前市より
占いサロン彩華の庵です。



今日は私の大好きなお大師さま。

空海の風景です。






~~司馬遼太郎  著
空海の風景より~~



平安の巨人空海の思想と生涯、
その時代風景を照射して、
日本が生んだ最初の人類普遍の天才の実像に迫る。
構想十余年、
著者積年のテーマに挑む
司馬文学の記念碑的大作。

昭和50年度芸術院恩賜賞受賞。





空海は
今で言う出世街道まっしぐらの
官史コースである大学を中退し
ボロをまとって私度僧になった。


そのことから推して
人間とは何か?という
人間の普遍的な探索や


空海の青年期をゆるがす
懐疑は
そういうことへの想いを生みやすい何ががあったのではないか?


大学は
音韻科という
外国語科があって
音博士が教授していたが
空海はそこへは入らず

ごく普通の、つまり官史になるのにもっとも適した科である
明経科に入った。

であるのに、
空海は語学に異常なほどに長け

のちに
唐へ行ったときは
通訳の必要がまったくなく
長安のひとびとを驚かした。


空海は入唐まで無名の僧であった。

ながく
私度僧のままで居て

官に登録されていなかったせいもあり

官寺の僧侶のあいだでさえ
ほとんど
その名がしられていなかった。


しかし
唐へ行き帰朝してのちは
空海をとりまく事情は一変した。

すでに
長安に渡来していたインドのもっとも
あたらしい
宗教である密教が
彼によって

根こそぎ日本にもたらされた。

その渡来の思想をかれ自身が独自のものと体系化し

満濃池の築池に
まねかれるころには
その盛名をきかぬ者はいないほどまでに
なっていたのである。



満濃池の堤防は
アーチ型である。

空海が堤防が水圧に堪えるためには
このかたちでなければならぬと

考えついたといわれている。


この巨大な池の水は
アーチ型の築堤の下をくぐってはしり流れ
なんと
三千六百町歩の広大な田園をうるおした。


空海のもつ魔法ーー
彼はひとびとを集めた。


工事の責任を負っている国司にすれば
これほど
ありがたい存在はなかった。

国司が公共用の土木をおこすときには
律令でさだめられた
労働力しか手に入れることができなかったが
空海がゆけば
労役をわりあてられている連中以外の者も

利生に
あずかりたいがために
農具を捨てて集まってくる。


五万人のひとびとを彼は集めた。

そして
池へ突き出た大磐石の上に登った。

そこに
密教の行法である
護摩をたくための壇を設け

炎をあげ
かれみずからが大日の深奥へ入り込みつつ土工地鎮の秘法を修した。

そのとき
そういう空海をあおいでいたひとびとは
天地があらためて

今日より
生まれ変わるような新鮮な感動を覚えたであろう。

空海のいる
大磐石のまわりには
讃岐じゅうからやってきた

ひとびとがびっしり詰めかけたであろう。

『自分は勅命できた』


と、まず言い

国家的権威であることと

自分はすでに
修法により
仏天を動かした、

『仏天は動き、この池をつくるために力をかすべくここに集まってきている。
ひとびとよ。
力をつくせ』


と、言ったとき
百姓たちは
地に体を投げつけて
空海への畏敬とその言葉を聴いた感動をあらわそうとした。

この感動は
工事にあらわれた。

これほどの巨大な難工事が
このあと
1ヶ月ほどのあいだで完成しているのである。



~~続く~~






こちらは現在の満濃池。




こちらは空海が護摩壇を造って
拝まれていた場所です。



満濃池は西暦700年頃に作られ、
台風や地震による決壊、修復を何度も繰り返した。
平安時代には欠壊した満濃池を、
空海が恐るべきスピードで改修したことでも知られている。



私は四国お遍路の際に
何度も訪れた満濃池です。


池と言うより
広大すぎて、もはや海。
湖のようでした。


空海が築池をされて以来
どんな日照りがきても
池の水は枯れることがないそうです。

私が訪れた際も
満々と水が湛えられておりました。







池が完成した際の
空海、喜びの書。


星と言う漢字の原型が描かれておりますね。

日が3つの中から星が生まれて

嬉しく楽しそうです。










ブログにお越しの皆様に
愛と幸運のシャワーが降りますように☔☔