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*【はるのり】の壮絶なプロフィール
只今公開中で

ぜひ記事を読まれる前に

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こちら


~生徒に人気の高校教師が

警察に逮捕され、どん底に落ち

そこから這い上がった男の姿です。

また、どのように復活し、

現在元気になったのか

種明かしも打ち明けています♪

ご期待ください^^~

 

 

さて、今回も

【はるのり家】の人々の話をさせて頂きますね。

 

前回もお伝えしましたが、

なぜ、

【はるのり家】の人々の話をしようと

思ったかと申しますと、

 

私【はるのり】にも負けず劣らず

なかなかの人生を

送っている人たちがいるからです。

 

私【はるのり】の人生

*【はるのり】のストーリーは

コチラです。

↓↓↓

 

 

その人たち

つまり

【はるのり】の家族

祖父母、両親、妹、叔父

この人たちは

どの人も面白い波乱万丈な人生を送っています。

 

その生きざまを

このブログでお話することで、

皆さんの生きるヒントになれば

思った次第です。

 

 

では、

今回は

私の祖父の話にお付き合いください。

 

(今回も

長文です^^;)

 

祖父たちが生きた

明治、大正、昭和の時代は、

父親は、

権限や力が強く、

いわゆる

大黒柱と呼ばれていました。

 

なので、

男親は、

その家では、

ちょっと怖い存在だったりしますよね。

 

あなたの家はいかかでしたか??

 

 

さて、

私の祖父ですが、

家の中では寡黙でしたが

やはり

怖い存在だったようです。

 

特に

祖父は

職人気質の男だったので

寡黙でもあり

ちょっとでも

機嫌が悪いと

家族に当たり散らすことが

日常茶飯事だったので

家族は大変だったようです。

 

(威張り散らす男って

格好悪いですよね。

でも、昭和初期の頃は

それが許されている時代でした。)

 

祖父は、

ある地方の漁村に生まれました。

ただ、

私生児だったようです。

 

父親が誰なのか、

わかっていません。

 

(このことを知ったとき、

私は、びっくりしましたし、

どう捉えていいのか、

わかりませんでした。

 

今は、

人には、いろんな人生があるのだから、

仕様がないかなと

達観できますが、)

 

なので、

ある意味

祖父は家に縛られない

自由人とも言えます。

 

大袈裟に言えば、

天涯孤独の一匹狼。

 

(私生児である祖父の思いを

知ることはできませんでした。

ただ、その境遇が、

祖父の半生に影響を与えていたことは、

確かだったと思います。

 

祖父の場合は、とっつきにくい男で、

今で言う、ちょっと面倒くさい人でした。

屈折している性格の持ち主だったと、

思います。)

 

そんな祖父は、

何でも出来てしまう器用な人でした。

 

漁師を生業にしていましたが、

他にも、

色んなことをやっていたようです。

 

その中でも、

わかっているのは、

山師でもありました。

 

山師として、

祖父は、山林の伐採を請け負う仕事も、

やっていたそうです。

 

(私の父から、聞いたことがあるのですが、

全く明かりのない真っ暗な山道を

リヤカーに材木を載せて、 

祖父と子供だった父が

リヤカーを押していくのは、

本当に怖かったと

父が話してくれました。

 

闇夜って、何が出るか分からない感覚に

襲われますよね。

それなのに、

昭和初期の舗装されていない山道を、

完全なる暗闇の中を、

二人だけで、進んで行くのは

相当怖かったと思います。)

 

 

話がそれました。

 

その後、

祖父は、

畳職人になり、

それが

祖父の主たる職業になりました。

 

(こんな風に、仕事を変えられるのは

孫の私も、凄いなと思いました。

 

手に職をつけるとは言いますが、

祖父はなんでこんなに簡単に?

仕事のスキルを身に付けたのだろうのかと、

思いました。

 

でも、

おそらくは

生きるために、

人知れず

陰で努力をしていたのかもしれません。

 

なぜなら、

私の父もそうでしたが

私自身も、そんな気質をもっているからです。

 

それは

祖父のDNAだと思うのです。

 

 

祖父には、

とても残念な欠点がありました。

職人として、

仕事を全うしていた祖父でしたが、

どうしようもない酒飲みだったのです。

 

(今で言うアル中でした。)

 

酒好きの祖父には

他には

楽しみはなかったと思います。

 

ただ、

絵を描くことが得意で、

地元の漁船のために

大漁旗を画いたりしていました。

 

 

 

一度、

孫である私のために、

私が小学生の頃、

ゼロ戦の線画を、 

目の前で、

さっさと描いてくれたことがあります。

 

今でも、

よく覚えていますが、

びっくりするほど、

上手いゼロ戦の絵でした。

 

(↑ ゼロ戦 

太平洋戦争の頃の日本の戦闘機)

 

頭に浮かんだゼロ戦のイメージを、

そのまま描いたのですが、

まるで写真のようでした。

 

そんな祖父は、

私が生まれたとき、

初孫だった私の初節句のために

色んな旗の絵を描いてくれたそうです。

 

 

(↑私【はるのり】の

初節句の写真です^^)

 

 

孫たちには、

優しい祖父でしたが、

子どもたち

(私の父や叔父、叔母)には、

とても厳しく、

頑固だったようです。

 

仕事から帰り、

酒を煽りはじめ、

酔うと、

 

特に、

祖母には、

文句ばかり言って、

ものを投げつけたり、

手を出しました。

 

でも、

酔っていないときの

職人としての腕は確かなもので、

見事な畳を仕上げていました。

 

仕事に取り組んでいるときの

祖父の姿は、

真剣さに溢れた

誰もそばに近づくことの出来ない

オーラを放っていました。

 

その集中力は、

そばで見ていた

幼い孫の私でさえ、

声をかけることは、

できないものでした。

 

普通に言えば、

無口で武骨だけど

格好いい男でした。

 

特に、

私にとって、

忘れられない出来事があります。

 

この頃の畳職人は、

畳に水を霧のようにして、

吹きかけるのですが、

ヤカンの水を口に含み、

唇をすぼめて、

膨らんだ頬に力を入れて、

一気に霧状に吐き出すのです。

 

祖父も

片手でヤカンの取っ手つかみ、

肩に担いで、

ヤカンの口を自分に向け、

傾けたヤカンから

水を含むやいなや

畳に向かって

一面霧状の水を吹きかけるのです。

 

ホントに格好良かった。

 

試しに、

はるのりも

やってみろと、

祖父に言われ、

見よう見まねで、

ヤカンの水を畳に吹きかけてみましたが、

だらだらとだらしなく、

水が口からこぼれるだけでした。

 

そんな技術でさえ、

プロの職人さんは、

本当に凄いなって、

思うしかないのです。

 

日本の職人さんて

格好いいですよね。

 

大工

畳屋

板金工

陶器職人

提灯職人

和紙職人

扇子職人

ガラス細工職人

などなど

挙げれば切りはありません。

 

でも、

だんだんと

跡継ぎがいなくなり

その技術(芸)が

絶えていくのを知るたびに

悲しくなります。

 

 (実は、私の父は大工だったときがあり、

私も大工に憧れて、

大工になりたいと思ったことがありました。

ただ、手先の不器用なはるのり少年は

すぐに諦めましたw)

 

さて、

祖父は、

職人気質からか、

こうと思ったら、

誰が何を言おうが、

自分の考えを押し通そうとする

頑固な面が、

祖父の家を、

どん底に突き落としました。

 

 

それは、、、

 

日本が太平洋戦争真っ只中の時に、

起きました。

 

祖父の長男(私の父)が、

まだ尋常小学校の児童だったとき、

 

*尋常小学校

 旧制小学校の一種で、

満六歳以上の児童に初等普通教育を

施した学校。 

明治一九年(一八八六)小学校令により設置。

 修業年限は初め四年、

同四〇年から六年となった。 

昭和一六年(一九四一)の国民学校令まで存続。

 

 

戦況によっては、

長続きするかもしれない戦争に、

大事な息子に赤紙が来て、

戦地に行かされるのではと、

心配した祖父は、

 

何を思ったのか!?

 

日本酒の一升瓶を抱え、

父の尋常小学校の校長室に、

いきなり行ったのです。

 

そして、

そこにいた校長先生に向かって

祖父は、

こう言ったのです。

 

「校長先生!

私の長男は

戦争には行かせませんので、

宜しくお取り計らい下さい。」

 

そう言って、

恭しく、

一升瓶を差し出したのです。

 

もちろん、

そんなことを、

校長先生は、

取り合ってくれるはずもなく、

一笑に付された訳です。

 

ここまでの話なら、

笑い話で済んだかもしれません。

 

でも、

残念ながら、

そうはいかなかったのです。

 

この祖父の行動が、

学校内だけでなく、

あっという間に、

狭い村の中で、

広まりました。

 

 そして、

祖父の家は

こんな風な

烙印を押されたのです。

 

 

「非国民」

 

 

当時、戦争に行くことは

名誉なことであり

お国のために

戦うのは

当然と考えられていた時代です。

 

(もちろん、本心は違っていても

そんなことは、

口出してはいけないことでした。)

 

「非国民」の家と

村中で、罵られ、

祖父の家は

「村八分」の憂き目に

遭いました。

 

*村八分とは、

村では、互いが助け合っていかないと

生活が出来ない世界でした。

何かあっても

誰も助けてくれない完全なる

知らんぷりな

イジメです。

 

 

誰も助けてはくれない

孤立した家となったのです。

 

祖父の家族は

みんな耐えました。

 

ただ

すぐに終戦を迎えたので

かろうじて

救われました。

 

というか、

その後のことは、

孫の私には、

聞かせてもらっていません。

 

きっと、

壮絶な思いをしたに違いありません。

 

なぜなら、

一度、

村八分に遭えば

完全に、

村の中では

生きていけなくなるからです。

 

ただ、

祖父たちは、

生きることに、

必死だったことは、

確かだと思います。

 

 

その後、

祖父は、

老いて畳屋の仕事が出来なくなると、

長男(私の父)を頼り、

祖母と共に、

上京しました。

 

ある組合事務所の管理人をしながら、

晩年を迎えましたが、

 

最期は、

脳溢血で倒れ、

亡くなりました。

 

 

 

こんな祖父でしたが、

手先は器用でも、

生き方は、

とても不器用だったと思います。

 

家族に対して、

きちんと、

自分の思いを伝えることが

出来ない祖父でした。

 

 

でも、

孫の私が勝手に思うに、、、

 

私生児だった祖父は、

自分の父親が分からないがために、

父親の愛情に、

飢えていたかもしれません。

 

もちろん、

その分、

可哀そうな思いをさせたくないと思う

祖父の母親が、

一生懸命、

祖父を育てたことでしょう。

 

だから、

祖父も愛を受けているのです。

 

父親になった祖父は、

自分の子供たちには、

祖父なりに、

愛情を注いでいたつもりだったと思います。

 

 

呑兵衛(のんべえ)で、

どうしようもなかった祖父でしたが、

心の中では、

子供たちを

思っていたのだと思います。

 

祖父の長男(私の父)が、

畳屋の丁稚奉公に出た後、

祖父は、

出来る限り、

長男の様子を見に、

丁稚奉公先に、

挨拶に行っていたそうです。

 

長男がちゃんと、

ご飯を食べているか、

心配で、

いつも握り飯を、

長男のところに、

持って行ったそうです。

 

(やはり、

はるのり家の人達は、

みんな優しいんだと、

思いました。

スミマセン💦

手前味噌です。)

 

 

祖父は、

自分の子ども守るために、

「戦争には行かせない」と、

大胆にも

言えてしまうほど、

 

家族を思う

愛の人だったのではないかと、

思うのです。

 

 

最後まで

お読み下さり

ありがとうございました。

 

次回は

私の父の話をさせて頂きますね。

 

 

____________________ 

 

 

 

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心理アドバイザーとして

アドバイスさせて頂きます。

 

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(英語のプロである私自身の音声)

プレゼント差し上げたいと

思っています。

 

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不定期ですが

『癒しの時間』と称して

ナレーターでもある

私【はるのり】の

朗読コーナーも

配信します♪

きっと心が癒されると思います。

 

 

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