先日のお茶のお稽古の掛け軸は「主人公」だった。
お稽古のたびに、どんな禅語か、どんな墨蹟に出会えるのか、いつもワクワクしてお軸に向かうのだが、今回は、読み間違えたかと思った。
千家の侘び茶の世界に、「主人公」とは、どういうことなのだろうか。
先生からのお話があって、やっと納得することができた。
人にどう思われるかを気にして妥協したり、人と比べたりせず、自分の軸で主体的に生きることなのだとおっしゃった。
そしてこんな話もしてくださった。
昔、中国の瑞巌和尚は、毎日、自分自身に「主人公」と呼びかけて、「はい」と返事をしていたそうだ。
目を覚ましているか、人に惑わされていないか、と自問する。
本来の自分の仏性から離れていないかを日々、確認していたということだ。
わたしは「主人公」という文字に圧倒されていたが、表面だけではわからない、深い意味を知った。
けれども、お稽古の合間にも、その堂々とした文字が目に入ってくる。
わたしのお手前を、わたしの中心に住む、もう一人のわたしが冷静に観ているように感じる。
「主人公」
気になって仕方がない掛軸だ。
そして、お菓子はというと「水無月」という名の、三角形の和菓子だった。
下層が白のういろうで、その上には、魔よけの小豆が乗っている。
一年の折り返しの六月をむかえ、半年間の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する、夏越祓(なごしのはらえ)の神事の時に食べるお菓子だそうだ。
葉っぱの舟に、ずっしりと乗っていた。
菓子を取り終わると、殻になったお皿の底に、うずまきの模様が現れた。
何とも涼しげだ。
素敵なことに出会うと、言葉にして言いたくなる。
けれども、ぐっとこらえる。
とても不思議な気持ちだ。
今あえて、言葉にしてもしなくていい。
それは心をくすぐられたサプライズ。
わたしは、この水無月の物語の中に入り込んで、愉しんでいる。
演劇、ひいては映画、さらには小説のよう。
物語が進行していくなかに、あえて言葉を挟みこんで、流れをさえぎらない。
情景の中に、想いを仕舞いこんだ。
やがてお稽古は終わった。
帰り道は、緊張感から解放されて心地よかった。
わたしは、この物語の主人公は誰なのと胸に問いかけてみた。
やはり、それは、わたし自身。
自分を生ききりたい。
そして、サプライズのように浮かんできた。
それは、わたしの中心に住んでいるもう一人のわたしだった。