20代の頃、後輩が会社の茶道部に入っていた。
「もう、楽しくて仕方がないんです。」と、すっかり茶道にはまっていた。
色白で、美しい手をした彼女によく似合っていた。
あの頃の私は、なぜあんなに緊張感あふれるなか、膝を付き合わせ、堅苦しくお茶を点て、飲むのか全く理解できなかった。
そして、今、私も茶道を習いはじめて、半年がたった。
お茶を習いはじめたいちばんの理由は、いっぱいのお茶に自分の想いを込められるような気がしたからだった。
言葉では、想いを忠実に伝えられない。
言葉にしたら、想いよりもたりないと感じてしまうことがあるのだ。
それは、空に滲む夕日の色を、ただの一色で表現するようなもの。
言葉を積みかさねても、途ぎれ途ぎれの説明のようになっていってしまう。
想いを表現するのならば、絵も、歌もいい。
絵は、色や形を通して、エネルギーが目から、皮膚から入ってくるだろう。
歌は耳から、そして骨にもエネルギーの振動が伝わる。
そしてお茶はというと。
それは、何気なく入れる普段のお茶でなくて、茶道という型に入る。
決まった動きの中で、心を鎮めて、お茶を点てる。
ひとつひとつの動きに意識を向け、集中する。
それは、無意識を意識化するということ。
鮮やかな抹茶色も、茶碗のぬくもりも、はじめてのように、特別に感じる。
鮮血が流れる身体に、緑の液体が染み込んでいくのが、静寂の中で感じとれる。
生命に、生命が注ぎ込まれる。
それは、表現するということとは、違うものだったかもしれない。
想いを込められる、という簡単なものでもなかった。
私は、生命へのかかわりという深みに引き込まれていた。
半年はあっという間だった。
お点前は少しも上達せず、毎回、右往左往している。
飛び込んだ世界が大きすぎて、心細い。
広大な宇宙にほうりだされ、その空間を漂っているみたいだ。
つかむ物が見つけられない。
ならば、自分の中心を意識して、ここに漂っていよう。
もうしばらく、旅をしようと思う。