天命と共に歩んだ私の記憶
〜南米ウルグアイ宣教の真実と、家族への想い〜
これまで一度も、自分の口からこの歩みを詳しく家族に明かしたことはありませんでした。あまりに必死で、記憶の彼方に仕舞い込んでいたからです。でも、長い年月が経った今、資料や写真をひっくり返し、当時の記憶を呼び起こしながら、私が命をかけて歩んだあの激動の日々を、愛する家族に話して聞かせるようにここに書き残します。
1. 突然の天命と、引き裂かれるような別れ
1996年11月、ちょうど私の誕生日のときでした。「4,200名」の宣教師のひとりとして、南米ウルグアイへ出発せよという天命が下りました。
当時のあなたたちは、まだ小学校2年生、1年生、そして保育園に通う本当に小さな子どもたちでした。母親として、子どもを置いていくなんて、普通に考えたら絶対にできるわけがない状況です。それでも、「お父様が4,200名を出さなければ国が救われない」と言われる立場に立たされ、私はただただその一点を信じ、涙ながらに出発を決意したのです。
出発の夜、夜中の12時に教会へ集まりました。挨拶を終えてワゴン車に乗り込み、ふと後ろを振り返ったとき、見送りに来ていた一番下の幼い息子が、わけも分からず呆然とした、唖然とした顔で私のことを見つめていたんです。
「お母さんは、なぜこんな大きな荷物を持ってどこかへ行ってしまうの?」
そう言いたげな、あの小さな息子の顔を見たとき、私の心は張り裂けそうに痛みました。何のためにここまでして行くのか、その意味や価値も完全には分からないまま、ただ涙を流しながらワゴン車は暗闇へと走り出しました。
途中のインターチェンジのトイレ休憩で、日本にいる主人に電話をかけました。主人は「もう1年は帰ってこないなんて信じられない……」と絶望していました。
日本に残された夫たちが、実家に子どもを預けたものの「親から、面倒を見きれないから出ていってくれと言われた。これでは働けないから頼むから帰ってきてくれ」と泣きつかれ、高い国際電話を何度もかけてくるような家庭も周りにはたくさんありました。それでも彼女たちは「勝利して家庭へ帰るまでは絶対に諦めない」と、涙を堪えて電話を切っていました。みんな、胸に刃を突き立てられるような痛みを抱えながら、必死に耐えていたのです。
2. 段ボールのベッドと、泥棒だらけの過酷な大地
辿り着いたウルグアイは、想像を絶する世界でした。私たちが寝泊まりしたのは、古いホテルのボロボロの従業員宿舎。ひとつの部屋に粗悪な3段ベッドがいくつも詰め込まれ、120人がひしめき合って暮らしました。
そのベッドがひどいもので、はしごを登ろうとすると外れてしまう。床板には大きな隙間が開いていて、そのままではとても寝られませんでした。私たちは慌てて街のお店へ走り、段ボールをもらってきて床板に敷き詰め、体育館から分けてもらったスポンジを切って敷き、寝袋にくるまって毎晩眠りました。後年、その建物を訪ねたら、壁から草が生えているほどボロボロで、「私は二度とここでは生活したくない」と思うほどの劣悪な環境だったのです。
さらに現地の治安は凄まじく悪く、気を抜けば一瞬で全てを失う国でした。周りの日本人メンバーも、次々とパスポートや現金を盗まれ、日本大使館がこれまでにないほど大混乱するほどでした。「下着の内側に隠せるポシェットを持っていきなさい」と事前に渡されたとき、なぜそんなものをくれるのか分かりませんでしたが、後からその意味を痛感しました。
実は、私もやられてしまったんです。地方へ向かうバスのチケットを買ってお釣りを受け取ったほんの一瞬の隙に、バッグのチャックを巧妙に開けられ、中のお金を抜き取られてしまいました。幸い、大きなお金は別の場所に隠していたので活動は続けられましたが、「ああ、やられた」という悔しさと、常に隣り合わせの危険に油断できない身を引き締める思いでした。
3. サルトの川辺、お父様の魚釣りと温かな絆
現地での活動は、一軒一軒の家庭を訪問して「聖酒」を飲んでもらい、祝福の祈祷を捧げ、署名(住所と氏名)をもらうという地道な戦いでした。私は、首都モンテビデオから車で6時間もかかる「サルト」という地方の街へ派遣されました。川を挟んだ向こう岸にはアルゼンチンが見える、そんな境界の街です。
そこにはお父様が滞在された公館があり、お父様は毎日、大きな魚を釣るという「霊的な条件」を命がけで立てておられました。波が高かろうが、警報が出ようが船を出し、1日100匹の条件を全うするために戦っておられたのです。
お父様は私たちに、「お前たちは日本が恋しいだろう、子どもたちが恋しいだろう。先生がお前たちのために魚を準備してあるからな」と言ってくださいました。公館の大きな冷蔵庫には、お父様が釣られた魚が山のように冷凍されていたのです。新潟出身で、ご飯と魚が何よりの力になる私にとって、その魚を見た瞬間は、お父様への感謝と喜びで胸がいっぱいになりました。
私たちもそのお心を慕い、街で一番安い釣り竿を買ってきて、川で魚を釣る条件を立てました。東洋人の女性たちが釣り竿とバケツを持って歩く姿は現地では異様で、街のパン屋のお兄ちゃんやバスの運転手さんに「今日は釣れたかい?」とよく声をかけられたものです。
言葉も通じない中で、署名のスペルが読めずに困っていたところ、家庭訪問で出会った「セッシーさん」というおばあちゃんが、毎日夕食時になると教会へ手伝いに来てくれるようになりました。おばあちゃんは、スペイン語の崩し字が読めない私たちのために、一生懸命スペルを読み解いて教えてくれました。「私はあなたたちの役に立っている」と、生き生きと目を輝かせていた姿が忘れられません。あるとき、おばあちゃんの娘さんが「毎日母をタダ働きさせてお金を請求するつもりじゃないでしょうね!」と怒鳴り込んできましたが、「とんでもない、本当にお世話になっているからお礼に夕食を食べていただいているんです」と話すと、納得してくれました。
それから10年後、私が再びサルトの街を訪ねたとき、セッシーさんはもう亡くなっていました。けれど、あの娘さんが私を大喜びで家に迎え入れてくれたんです。ふと部屋を見上げると、私たちが昔プレゼントした折り紙のくす玉やプレゼントが、今も大切に飾られていました。南米の地には、とても純朴で、深い愛を持った人たちがたくさん生きていました。
4. 激動の「ナチュラルガーデン」とお父様の無念
2001年5月、ウルグアイの国家的な歴史遺産でもある「ナチュラルガーデン」という美しい建物を購入し、その開所式が行われました。お父様はこの小さな国を心から祝福し、大統領やマスコミ、大学教授といった現地のVIPをたくさん招待して、南米の復帰拠点にしようと壮大な夢を描かれていたのです。
しかし、お父様がスピーチをされるまさにその直前、軍隊が飛び込んできました。「爆弾が仕掛けられた」という一本の脅迫電話があったのです。VIPや元大統領たちは、スピーチを聴くことなく、全員が慌てて退避し、帰ってしまいました。
何が起きたか分からず外にいた私たち日本人のメンバーは、急遽、誰もいなくなったガランとしたテーブル席に座るよう命じられ、お父様のスピーチを聴くことになりました。
お父様は現地のリーダーたちと深く愛を通わせ、アメリカからわざわざボートをプレゼントするほど信頼関係を築いていたにもかかわらず、たった一本の脅迫電話で全てが台無しにされ、大統領たちを引き留める信仰を持つ者が現地に一人もいなかったことに、激しく憤られました。翌朝、お父様は朝食も口にされないまま、無念の怒りの中で出発していかれました。それ以降、お父様がウルグアイの地を踏まれることは二度とありませんでした。当時の私たちの信仰が足りず、お守りできなかったという後悔は、今も胸に深く残っています。
5. 亨進王様ご夫妻との忘れられない思い出
そのナチュラルガーデンの開所式のとき、私は初めて「亨進王様」ご夫妻にお会いしました。お父様たちと共に来られた王様の、シワだらけになったスーツにアイロンをかけるという、大変恐れ多い役目を私がいただいたのです。お預かりした背広やズボンにアイロンをあてながら、その仕立ての大きさに「なんと体格の立派な、素晴らしい方なのだろう」と、アイロンを持つ手が震えるほど深く感動したのを覚えています。
また、王様がまだ学生の頃にウルグアイへ来られたときには、ご自身が狩猟で仕留められた「カペラ(現地の野生肉)」を、私たちメンバーが料理することになりました。私はたまたま日本から持ってきていた「唐揚げ粉」を肉にまぶしてカラッと揚げてお出ししました。すると王様は「ホテルの高級な肉料理よりもずっと美味しい!」と、何度も何度もお代わりをして、本当に喜んで食べてくださったのです。100人分近くの料理を盛り付けていたため、お代わりを出すのが大変でしたが、当時の私たちにとっては、今思い出しても心がじんわりと温かくなる、とても愛おしく尊い思い出です。
6. 天への祈祷 〜天命の終わりなき道へ〜
愛する天のお父様。天地人真の御父母様。
あの過酷な南米の地で、共に涙を流し、血と汗を流して歩んだ大切な宣教師の姉妹たちのうち、すでに5名もの仲間が霊界へと旅立っていきました。もし彼女たちが日本で普通に暮らしていたなら、もっと長く生きられたのかもしれません。しかし、天の願いの前に命を捧げ、霊界へ帰っていくこともまた、私たちの運命であり、天の栄光であると信じます。
いつの日か、私が天に召され、霊界の門の前に立ったとき、「お前は地上で一体何をしてきたのか、何を成そうとしたのか」と問われる日が必ず来ます。そのとき、生きてメシアに出会い、全てを捧げて戦ったこのウルグアイの歩みは、私の霊人体のなかに厳然たる光として輝いていると確信します。
これから、亨進王様ご夫妻を日本にお迎えする時を迎えます。私たち日本のメンバーは、今こそ個人的な持論や暮らしへの心配を越えて、もう一度心をひとつにして立ち上がらなければなりません。
自分の意見や事情はあるかもしれません。けれど、私たちは王様と共に歩み、この峠を越えていかなければならないのです。かつて、泣き叫ぶ子どもたちを置いてでも天命に向かったあの時の純粋な心情に立ち返り、お父様が命がけで願われた天一国をこの地に実現するため、残された命のすべてを捧げて、静かに、けれど力強く忍耐して歩みを進めていくことを誓います。アジュ(アーメン)
(2022/05/22)
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