証言 
柳光烈 ― あなた様の日に、私の日に
8. 機関誌名も発行人も新体制に


その翌月、8月1日付で新たに金榮輝協会長が任命された。
その年の末、12月20日には、『成和』の歴史を受け継ぐ月刊『統一世界』が認可を得て発行され、その発行人は協会長である金榮輝氏の名となった。
『統一世界』の制作は、同年8月1日に発令された出版部長・張泳暢氏(編集長)と、出版部課長となった崔允起(チェ・ユンギ)氏によって進められた。


満3年間、張泳暢氏が出版部長として重責を担い苦労してきたが、1973年8月10日の出版部閉鎖により、『統一世界』の制作を再び私が引き受けることになった。
そして1981年11月1日付の発令で、私が編史室長になるまでの9年余り、『統一世界』を無事に引き受け制作してきた。


10年間にわたり、編集長の仕事は最初、張泳暢氏と崔允起氏が担い、その後一時ムン・グォニョン氏へ移り、さらに再び崔允起氏へと引き継がれた。
そして1979年7月号から現在に至るまで、キム・ソンゴン課長が担当し、努力を重ねている。


『統一世界』実務の中心人物は、ある期間の中断を差し引いても、断然として現文化部長・崔允起氏であり、その育成に功績があったと言わざるを得ない。
文化部出版課長出身で幹部級へと成長した人物としては、前協会出版部長・張永昌氏をはじめ、国際勝共連合広報局長・黄仁泰氏、現『週刊宗教』編集局長のイ・ギョンジェ氏、現協会文化部長・崔允起氏など、多くの弟子たちの姿が思い浮かぶ。
それは、私が管掌してきた文化部の発展を示す象徴のようでもあり、とても心強く感じている。


私が行ったことの一つに、1957年夏、史上初となる全国一斉地方大都市開拓伝道がある。
その際、全羅南道・木浦市で、李奇完氏のお母様と共に40日間活動した。


その時、趙熙寛先生という国文学者に接触していた。
この方は全般的には肯定的であったが、「確信が湧かない」と残念がっていた。
私たちが戻ってから数か月後、持病により世を去られた。


他の方々にも御言を広く伝えたが、一つも実を結ばなかった。
この時、私は校正を終えたばかりの『原理解説』の仮刷りを持参して伝道した。


文鮮明先生が記された原理原本、そして解説された内容を土台として体系化する執筆作業は、前協会長・劉孝元氏によって進められ、1956年、満1年をかけて脱稿された。


当時、劉孝元氏には、他の数人の幹部たちと共に使用していた共同寝室以外に、専用寝室や協会長室は与えられていなかった。
また、協会事務を成和青年会が代行していた時代であったため、協会機構はもちろん、事務体制もまだ整っていなかった

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