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証言 柳光烈 ― 「貴方様の日に、私の日に」

 4.たった今、山から下りてきた遊撃隊のように当時の私の身なりは、実にひどいものだった。後に聞けば、先輩の女子学生たちは、初めて私を見た時、「たった今、山から下りてきた遊撃隊のようで恐ろしかった」と言っていたという。それも無理はなかった。1946年晩秋、キリスト学生会のある深刻な証言集会で、ある人の信仰の証しを聞いて強い衝撃を受け、私は突然その場を飛び出した。そして服を次々と脱ぎ捨て、震えながら冬を過ごしたのである。それ以来、六、七年間というもの、私は古着ばかりを身につけていた。しかも、一度着た服はほとんど着替えることもなかった。たとえば、どこかで洋服のズボンを一着手に入れたとする。すると膝や尻を何度も継ぎ当てして、まるでホットクや栗饅頭のように厚くなっていた。家内が心配して、「どうしてそんなものを履いているのですか」と言うと、私は平然と、「これのどこが悪い。寒くもないし、いいじゃないか」と答えた。すると家内は、「ええ、あなたはそれでいいのでしょうねえ……」と呆れたように返したものだった。そんな人間が、頻繁に散髪などするだろうか。頻繁に風呂へ入るだろうか。私は、ただ成り行きに任せて生きる“自然人生”そのものだった。だから、人から見れば恐ろしい風体にならざるを得なかったのである。首都が奪還されると、私は大学二年の夏休みにソウルへ上京した。ソウルでは、大学へ通いながら、よく乞食のような格好で街へ出て行き、立ち止まっては、ただ世の中を観察していた。私には、ソウルの街角こそが世界の動きを凝縮しているように思えたのである。当時はまだ戦時中であり、休戦直前の時代だった。世界の動きは大韓民国に集中して現れ、その歴史の中心はソウルにあり、さらにソウルの街の一断面には、世界全体の姿が映し出されている――私はそう考えていた。私は自らを「街の詩人」と任じ、塵埃の中に立ちながら、詩の着想を練ったりしていた。大学四年間、私は傘というものを持たなかった。そのため、当時英文科の先輩であり、運営委員長だった崇田(スンジョン)大学の金利哲(キム・イチョル)教授は、今でも会うたびにこう語る。「その頃の柳光烈は、本当に格好よかった。雨がざあざあと降りしきる街を、傘も差さず悠々と歩いて行く姿が……」私はその頃、東大門メソジスト教会へ通っていた。日曜学校の中等クラスを担当する一方、青年会の責任者としても活動していた。その教会は、メソジスト護憲派の発祥地でもあった。 


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