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【証言】柳光烈 ― 「貴方様の日に、私の日に」

3.キリスト教学生会 春川市連合会長となる

その後、皆の強い推薦によって、私は中学三年生で会長に選ばれた。そして高校一年生になってからも、引き続き一年間、会長を務めることになった。
さらに高校二年になると、キリスト学生会・江原道連合会の総務となった。しかし、その後まもなく朝鮮戦争(6・25事変)が勃発し、それまで築き上げてきた活動は、ひとまず幕を閉じることとなった。

私は以前、中学二年生の時に江原道教育展覧会で文学賞を受賞したことがある。その頃は友人たちの間で「誰が光烈だ」と言えば通じるほどで、中古のスプリングコートを一着手に入れては、年中そればかり着ていたため、「年中スプリングコート」というあだ名まで付けられていた。

1951年春、中国共産軍が押し寄せて来た時、私は韓国軍の駐留地から従軍し、丸一年間、その新聞が廃刊になるまで、陣中新聞(日刊)の編集をたった一人で担った。
その時、どれほど文章を書いたことだろうか。以前の新聞記者時代の数年間とは比較にならないほど、思う存分、文章修練を積むことができた。

文法や修辞法などを意識しなくとも、一歩進むごとに一行を書いても、文章に重複感がまったく生じないほど、短く鋭い基本形の文章を書くことができた。極端に言えば、一寸たりとも軸がぶれない感覚だった。

その後、私は軍服姿のままソウル大学の入学試験を受け、見事合格した。

避難首都・釜山へ行き、大学一年生として学んだ。
戦後の混乱の中、学校へ通いながら出版社「民教社」では校正を担当し、「新教育」では雑誌記者を務め、さらに崇実(スンシル)高校では講師までしていた。副職を三つも掛け持ちするほど忙しい苦学生生活――その過酷な日々が、私の大学四年間を貫いていた。

今になって振り返れば、その頃、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は釜山・凡一洞の山腹に小屋を建てられ、姜賢實(カン・ヒョンシル)伝道師や、李耀翰(イ・ヨハン)牧師を伝道しようとしておられた時期だった。

その同じ頃、私もまた凡一洞の片隅で、毎晩、港湾労働ではないが、埠頭のチェッカー(荷物点検員)として働きながら学校へ通っていた。そして「世界主義者」としての苦悩に沈み、毎夜、涙を流していた。

解放後から従軍するまでは、私は熱烈な民族主義者だった。
しかし、釜山で大学生活を始めてから、いつしか自分がどうしようもない「世界主義者」になっていることに気づいた。

私は「狂いたい気持ち」という題名の詩を書き、学校で発表したこともある。
自由市場として浮つき、退廃した釜山の後方社会を目の当たりにしながら、それでも狂いきれない自分自身の、わずかな体面に唾を吐きかけ、人間の限界性を激しく嘆いた。

雨の夜、風が吹き荒れる夜明けには、龍頭山の頂上にあった粗末な掘っ立て小屋が震えるように揺れ、私は眠ることもできず、一晩中目を覚ましていた。

また、目を閉じるたびに、幾重にも連なる断崖絶壁の下で、恐ろしい海が渦巻き、その崖に全世界の人類が逆さにぶら下がり、「助けてくれ」と叫んでいる幻想が、現実であるかのように浮かび上がってきた。

その頃、世界は行き詰まっているように思えた。
どこにも人類の進むべき道が見えなかった。
未来は混迷し、歴史には出口が存在しないかのようだった。

私は毎日、その苦悩の中でもがき続けていた。

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