柳光烈 ― 「貴方様の日に、私の日に」


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二十歳頃のことである。

友人のキム・ジョンチョル君が、「ボクナムよ、お前が泣けば私の目から血が流れる」という一節で始まる民謡“十二番”を書き写していた。ところが私は、彼が書き終える間に、その内容をすべて頭の中に記憶してしまった。

もともと私は暗唱力には自信があった。
たとえば、日本の明治時代の「教育勅語」や、昭和期に青少年学徒へ与えられた勅語など、「覚えよ」と言われれば、何百人いる中でも二位以下になったことはなかった。

だが、その反面、忘れるのも早かった。しかも年を重ねるにつれて次第に衰え、最近では人に到底及ばないほどになってしまった。

幼い頃、故郷にいた時のことだ。
ある中年の尼僧が家に来て、私を指差しながらこう言った。

「この子は神様から授かった子だから、絶対に犬の肉を食べさせてはならない。」

その言葉のためか、私は生涯を通して一度も犬の肉を口にすることなく生きてきた。

私は、友人キム・ジョンチョル君の粘り強い勧誘にもかかわらず、理論的な是非ばかりを立て、なかなかイエスを信じようとはしなかった。
しかし解放後、苦学生だった友人・朴永圭(パク・ヨンギュ)の姿を見て、次第に心を動かされるようになった。

彼は冬でも夏服のまま過ごし、靴下さえ履かなかった。夜遅く帰宅しては、おこげ飯を食べながらも、いつも笑顔で、いつも感謝していた。
私はその生き方に強く打たれ、もはや反論することもできなくなり、ついにイエスを信じてメソジスト教会の信者となった。

その年、十九歳。解放翌年の春、私は江原日報の記者になった。

十九歳の時、アメリカ式学制によって九月一日に春川中学校夜間部へ入学した。そして教会へ通い始めるや否や、日曜学校の班長となり、キリスト学生会(KSCF)の詩演会・合唱会の初代文化部長にもなった。

ところが、二年も経たないうちにキリスト学生会は有名無実化してしまった。
私は「このままではいけない」と思い、役員会すら開かれない状況の中で、役員たちを説得し、書類上でも役員会の合意を成立させながら、

* 日曜学校対抗雄弁大会
* キリスト学生会雄弁大会
* 柳光烈文芸作品展示会

などを次々と開催していった。

役員たちは形骸化した役員会には出席しなかったが、宴会を開いて招待すれば、不思議と誰も欠席しなかった。
そして集まった後には必ず役員会を開き、最後には悔い改めの祈りを捧げたりもした。

そうした中、ある雄弁大会では、後にメソジスト教会の著名な指導者となる金字鐘(キム・ジャジョン)牧師――当時の江原日報社長――と、羅士行(ナ・サヘン)牧師を審査委員として招いた。

しかし、その方々が当時「進歩派」と見なされていたため、私まで同じ一派と誤解され、極右派の会長たちから暴行を受け、前歯を折られる事件まで起きた。

私は深く悩んだ。
「こんな教会にいて、何ができるのだろうか。イエスは信じる。しかし教会はやめよう。」

そう思い、教会の幼稚園教室で祈っていた時だった。
その時、心の中に一つの黙示が与えられた。

「愛とは、荷を下ろすことではなく、荷を負うことである。」

私はその言葉を受け、静かに立ち上がった。