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こんにちは。
あこがれセラピストの真野まきやです。
^_^
73年前の7月31日の出来事と言えば、思い出される方もいらっしゃるのではないでしょうか?
戦時中の困難な状況下において、自らの独断で人道的な決断をする……そんな日本人男性がいたこと、現在でも多くの人に語り継がれています。
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【「涙」と「感動」が幸運を呼ぶ/矢島実さん著】
を参考に一部引用させて頂きます。
1940年7月、今から73年前のリトアニアという国の日本領事館での出来事です。
ナチスの迫害から逃げ延びてきたポーランドのユダヤ人難民が、助けを求めてきました。
ヨーロッパ中で、ユダヤ人狩りを激しく行っていたドイツが、ポーランドに侵略してきたので、着の身着のまま脱出したというのです。
日に日に難民の数は増えていきます。
その時、対応したのが、日本領事館の杉原千畝さんです。
『あなたたちの代表5人を選んでください。話を聞きましょう』
杉原さんはこう言って部屋へ通しました。
『外国に逃れるため、日本を通るビザが欲しい』
とバルハフティックさんという人が訴えます。
まずは安全な国・日本に逃れ、そこから他国に渡って行きたい、というのです。
杉原さんは悩みます。
領事代理でありビザを出す権限者でしたが、
簡単にビザを出すわけにはいかないのです。
日本は、ドイツとは防共協定を結んでいたので、ドイツの思惑を無視できません。
本国政府に打診しましたが、ビザ発給を拒否する内容でした。
『どうしたらよいのか……』
ドイツの魔の手は近くまで迫ってきており、このままでは、この人たちはナチスによって迫害されるのは必至です。
外務省の言うことをきいて自分と家族を守るか、
目の前の助けを求める人々を救うか、
彼が悩んでいる時に、妻の幸子さんのこの言葉に勇気をもらい、決断しました。
『あなたの足かせにはなりたくない。
どうぞ思うようになさってください』
7月31日の朝、杉原さんはユダヤ人の前に出て、こう告げます。
『みなさんがたに、日本の通過ビザを発行することになりました』
一瞬しーん、と静まり返ります。
それから大きなどよめきが起こりました。
抱き合って喜び、キスする人たち、
子供にほおずりする母、天に向かい神に感謝する人々。
それからという もの、杉原さんは来る日も来る日も、ビザを書き続けます。
事実上、ソ連に支配されたリトアニアには、杉原さんのいる領事館は必要ないとされ、ソ連から退去を告げられていました。
ドイツ軍もいつ攻め込んでくるかわかりません。
時間がないのです。
休息も食事も満足にせず、ビザを書き続けました。
腕も腫れ、ほおもこけ、万年筆も折れました。
それでも杉原さんは書き続けます。
他国の領事館では、ビザ発給は断られているのでユダヤ人にとって、杉原さんだけが頼みの綱でした。
『ありがとう』
『感謝します』
ビザを受け取った人々は、口々に深い感謝を述べます。
杉原さんがリトアニアを去る日の朝、
列車に乗ってからも、ビザを書き続けました。
やがて、列車は滑るように出発します。
その時、ホームにいた、ユダヤ人が叫びました。
『スギハラ、私たちはあなたを忘れない』
『もう一度、あなたにお会いしますよー』
涙を 流しながら、
『ありがとう、ありがとう』
と何度もホームで叫んでいました。
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ユダヤ人たちは、苦労しながら鉄道でソ連を東に横断し、そこから船で日本 に渡っていきました。そして日本からアメリカや上海へと渡りました。
その30年後、杉原さんは、ビザを発行したバルハフティックさんをはじめとしたユダヤ人と涙の再会を果たしました。
1985年、杉原さんはイスラエル政府よりヤド・バシェム賞を贈られます。その時、杉原さんは、こう言っています。
『私 のしたことは 、外交官としては、間違ったことだったかもしれない。しかし、私には、頼ってきた何千人の人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは人間としては正しい行動だった』
1994年、日本の外務省の資料館で、杉原さんが発給したビザの一覧『スギハラリスト』が見つかりました。発見者のボストン大学のヒレル・レビン教授は、杉原さんの勇気ある人道的行動に感動して、こう述べています。
『スギハラ氏の人道的行動は、オスカー・シンドラーなどとはまったく質の違う、自らの命の危険を冒してまでおこなったもの』
『彼の人道的行動はシンドラーをはるかに超えている』
【引用終了】
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この7月31日の出来事は、杉原さんの行動は、日本人として誇らしい想いに駆られますね。
^_^ぜひ、子供たちにも語り継いでいきたいです。
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