2018年8月24日

 終戦間近かの頃は,校庭で村の戦死者の合同葬が何人かずつ時々行なわれた。

 村には3つの集落があるが2つの集落のお寺の和尚さんは国語の先生と音楽の先生だった。その日は,この2人で戦死者を弔った。

 村では何人の戦死者がいたか知らない。しかし,我が集落のお寺の一つの部屋には,十数人の戦死者の写真が掲げられ供養されていた。私の父と父の兄との連名で供養されていた。

 父の連隊は終戦間近かには宮崎にいて,父は連隊の参謀長だった。情報ではアメリカ軍本土上陸作戦3つのうちの1つが宮崎だった。宮崎に上陸されたら,連隊は全滅間違いなしだったようである。死を覚悟していたが,終戦になり,死を免れた。兵隊たちに申し訳なく,村の自分の集落の戦死者をせめて供養しようとなにがしかのお布施をお寺に出したようである。

 その供養の間は何年か前まではあったが,お寺が改築され,そのような部屋はなくなったかもしれない(確認はしていないが)。