201278日,9日,小学校3年から中学2年まで縁故疎開をしていた長野県の田舎に行ってきた。目的はその時の小・中学校の同級会の出席と祖先のお墓参りである。

長野まで高速道路が出来,高速道路の入り口まで,自宅から15分で行けるので,何回も車で行ったことがあるが,高齢でもあり,娘が心配するので,今回は長野新幹線で行くことにした。

 高崎駅を出てすぐに軽井沢駅に着いたのでびっくりした。時刻表を見るとその間わずかに16分だった。

 大学生のころまでは毎年汽車で田舎に行っていたが,碓氷峠の手前の横川駅で,蒸気機関車を外し,ジーゼル機関車を前に2両,後ろに1両つないだのだった。そのためだけでもかなりの時間を要したものだった。その先,軽井沢までは急坂があり,アプト式線路で,その線路のギアに列車にある歯をかみ合わせながら,ガタゴトとゆっくり登ったものだった。軽井沢までかなりの時間がかかったように思う。このアプト式鉄道は1963年に廃線になったとのことである。

 上田駅に,たったの1時間26分で着いた。目的の戸倉駅までは,かつての国鉄なら3つ先である。その国鉄が今では,しなの鉄道になっていた。列車は出たばかりだったので,約1時間待つことになった。

 しなの鉄道駅の待合室で待っていたら,上田駅の素晴らしくなったこと,千曲川沿いの国道と県道の長野方面へのバスが全くなくなってしまった不便を,何かしら誰かと話したくなった。教育実習に来た頃は国道には急行を含めひっきりなしにバスがあったし,県道には1時間に1本のバスが走っていた。

 知らない人に話し掛けられることはよくあるが,用もないのに知らない人に話し掛けるなど,私には今まで全くなかったことである。隣に座っている人に「話をしてもいいですか」と聞くと,喜んで応じてくれた。行く先は同じ戸倉上山田温泉だった。

 彼は,最近の裕福さに何の苦労もしないで暮らしている子どもたちを見るにつけ,彼らに戦争中の苦労を伝えなければならないという思いから,奥さんとの今回の旅を思い立ったとのことだった。

 戸倉上山田温泉の圓山荘に集団疎開していたので,その旅館を予約しているとのことだった。

 生まれた年は昭和10年で,私と同じだった。彼は早生まれなので学年は1年上の4年生で,池袋第二国民小学校から集団疎開したそうである。

 当時,この温泉に行ったことがあるが,どこの旅館からもたくさんの子どもが外を見て騒いでいたのを覚えている。皆元気そうに見えたが,親から離れた生活で,どんなに寂しく,その先どうなるかもしれない生活は,どれほどか不安だったろうかと思う。

 彼が最初にいた圓山荘ではご飯もお米が半分ぐらいあって,待遇も良かったそうである。しかしそこは傷痍軍人のための宿舎に変更されたため,途中から移されたお寺では稗ばかりのご飯で,おかずも少なくひもじい思いをしたそうである。そんな所にも次の日訪ねてみるとのことだった。

なお,集団疎開から東京に帰ったら,学校も自宅もなくなっており,別の所に移り住んだので当時のクラスの人たちとは全く音信不通だそうである。