2018年9月11日
父親は幼年学校,士官学校,陸軍大学を出ている。終戦の時は大佐だった。幼年学校に入学した時,「今後,2等車には絶対に乗るべからず」と言われたそうである。私は2等車,3等車しか知らないが,1等車と言うものがあったらしい。父の10歳違う中学生の弟が親父の所へ遊びに行って帰りにもらった切符が1等車で外国人が何人も乗っていたそうである。
このように父親は今の中学生の頃から特権階級にいたそうである。
戦中戦後,畑は私と母でやっていたが,戦後,父親が畑に行ったことがある。荷車に肥桶を幾つか載せて畑に運んだ。桶の中身は人糞であるが水分が多い。道路は凸凹なので桶の小便が跳ねて飛び散る。跳ねないように荷車をひくのは大変である。畑に着いたと言っても,天秤棒の前後に肥桶をぶら下げて運ばなければならない。土手の坂道を下るのも大変だった。
父親は村の誇りの人だそうで,父が村に帰る時は私の友達なども何回も見に行ったそうである。時にはサイドカーで来て格好良かったそうである。父は村に帰っても本家に行き私は一度も会うことはなかった。
そんな父が苦労して肥桶を畑に運ぶのをどんな気持ちで村の人たちは見ていたかと思う。ただし,父が畑に行ったのはこの1回だけだった。
かつて偉かった軍人も仕事がなく大変だったようで,我が小学校の廊下で偉そうな軍服を着た人が少しばかりの文房具を売っていたことがあった。
祖父は教育関係の出版社を経営していたが,父は公職追放とかで教育関係の仕事には就けなかったとのことである。父は陸軍参謀だったのでじっくりと将来の仕事の作戦を練っていたようで,あちこちに出掛けていた。