小学校二年の時でした。
学校の帰りに道端で妙なものを拾いました
5センチほどの物で、鉄なのか陶芸なのかプラスチックなのかもわからない、人のような動物のような花のような、コップのような形をしたなんとも言えない妙な形をした物でした
ただ、グロテクスでなくなんかカッコよかった
ただ明らかに作られた物であったのは確かでした。
無意識にそれを拾ってポケットに入れ、持ち帰り、母にも兄、姉にも「これ、なんと思う?」と聞いたのですが、皆「わからん、気持ち悪!」というそっけない返事だったのを覚えています。
帰ってから、じーと眺めていたのですが、結局はそれが何なのかわからない、けど何故か気に入りわたしの机の本棚のところに飾りました
それからというもの、なんとなく気になり、見るたびになんか親しみを覚えて、いつなりそれを触ったり、眺め、たまにポケットに入れて学校に行ったりして、ポケットに手を入れて触ってたり、まるで親友のような感覚だったのを覚えています。
なんか、見たり触ったりさるとホッとしていたからという記憶があります
時にはふざけて語りかけた覚えもあります。
上手くは言えませんが、分身のような存在だったのかも知れません、、、、
さて、相反する二元性というものがこの世界には存在します
上と下、高い低い、幸せ不幸、喜び悲しみ、愛憎、善悪、、
この二元の境界線ってどこでしょう?
そして物質世界もそう
山はどこからが山?
山の裾野はどこ?
調べてはいないけど、あるとすれば、誰かが「ここからが山やね」と決めただけでしょう
当然国境もそう、
山と川の境界線は?
ついでに、わたしと山の境界線は?
あなたとわたしは?
例えば強いと弱い
わたしは息子よりは強いが、嫁さんより弱い、嫁さんはわたしには強いが、息子には弱い、、、
明確な境界線は、どこにあるのか、、
二元論というのは、この世界や現象そのものではなく、世界や現象に対して描くわたし達の観念なのです
この意識や理解が進むと、全ては繋がっているとなります。
私達は当たり前のように何かと何かを分けています
この意識も観察すれば面白いです
普段私達は常に何かに焦点を合わせているのがわかります。たまにわたしはゾーンのような感覚になります、その時の意識は、例えば時計が在る、その時計は時計の形、意味、時間、、という制限されたものを全体からすべてのものを削除して顕れているという意識です
カメラの機能に似ています
確かめるとなんとなくですがわかります
言い換えれば、何かで在るというもの、つまり個性に焦点を合わせています
小学二年、まだまだ感性豊かです
例えば鉛筆なら鉛筆とわたしが成り立ちますので何の不思議も生まれません
これは何物なのかわからない創作物とわたしの中に境界線などない状態が生まれた状態、この境界線を言い表すと「あるようでない、ないようで在る」状態です。
私達は何十年も生きて来て、今そんな「何これ?」を探すのは困難ですね
感覚としては例えば想像を超越した景色やなにかを見た瞬間とか、そこに言葉にならない感動が生まれるのは、それとわたしの境界線が存在しない、霊的に言うとそれとわたしが一体となると言うことです
赤ちゃんがわたしを見て屈託のない笑顔を見せるのは、そこに明確な境界線というものが薄いからです
「あなたとわたし」という境界。
「誰かと誰か」「国と国」「民族と民族」
これも概念が創り出した幻なのですね
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