「真理に目覚めるとは実在するものに気づくこと」

私はこの言葉が大好きです。全ての精神世界の要素がこの言葉に集約されていると思っています

「実在するもの、」これは疑うことなく目の前に展開している事実です
「この世界は幻影だ、迷妄だ」
「この世界は自分を投影したものだ」

これはこれで私は正しいと思います。
でもだからどうなのだ?なのです
宇宙人にでもならない限り全く違う世界など現れません。釈迦も凡人も見ているものは同じ風景です

私達は間違いなく生きています。生きているから見たり聞いたり、触れたり、嗅いだり、味わえるのです

その紛れもない事実が「実在するもの」なのです

この実在を体験する方法に
「カルマ・ヨガ」というものがあります
「見返りを求めずに行動することを通じて、自己の本質を学び、精神的な成長を目指すヨガです」

これをどう捉えるか?
これは日常の生活ひとつひとつを心を込めて丁寧にするという行動につながります。

例えば、瞑想、これは思考を止めるためという側面が大きいです
これを日常で行います

「見返りを求めずに、、」とは、別になにか特別なこと、例えば良い行いなどの限定されたものではなく、日々の些細な行動ひとつひとつに集中すること、そこに「こんなことしてもなんのメリットもない」と言った見返りを一切持たずに、ただそれに集中する行法です

実在するものは「今」この瞬間しかないと書きました。1秒前は実在しません。
実在するのは「今ここ」のみです

例えば食事
これは毎日必ずします。食事に限定されなくてもパンやお菓子、コーヒーやお茶も含めると必ずしています

これひとつでもカルマ・ヨガは成り立ちます

コーヒーの香りを味わいます。「いい香りだ」は当たり前です。それを通り越して深く深く香りを味わいます。詩人ならいくらでもその感想は言葉になるのですが、ならない人でもとにかく香りを味わいます
それだけです。それだけで不思議なことに「私」が消えます

暖かいご飯を食べています
ゆっくりと口に含んでよく噛み味わいます
その味に神経を集中させます
噛んでいるうちに、噛めば噛むほど「味」が出てくるのがわかります。米粒ひとつひとつがわかります。
その味はどんな味でしょう?、、、
言葉が出なくでも味うのです。出てくれば楽しいです
意識全てをお米の味に向けるのです
「旨い!」だけで済んでいると言うことは実在してるものに気づいてはいないという感覚です。

これが成り立つと、そこに「私」が消えます
その時は「私はいない」とは感じません、当然で「私はいない」と思うのは私がいるです
例えば「今ワンネス状態だ!」は誤解です
例えばパチンコが好きな人はパチンコに集中している時が心が安らぐからと同じ理屈です
パチンコに集中しているおっちゃんは「私」がいない至福の時間なのです

すると、意識は「私がご飯を食べている」から私がなくなり「ご飯そのもの」に変わるということです

初めは「味を感じる」意識が慣れてくると「味そのもの」になるのです

カルマ・ヨガとはわざわざ瞑想をせず日常の中で瞑想と同じ効果があるヨガのことです

こんなこといくらでもあります
例えば1円玉を手の甲に乗せて、その重さを感じます。1円玉など軽くて感じるか感じないかですが、それを力を抜き「感じよう」と集中します

そして重さが感じた時点で思考、つまり「私」はいません

呼吸でも出来ます
普段は当たり前のように吸って吐く、、しかしていませんが、時間がある時は「呼吸を味う」ことをすると、どこかの地点で、「言葉にならない」味がやってきます、その時点では「私」はいません。「私が呼吸を感じる」ではなく「呼吸」だけが残るのです
そして究極は「呼吸そのものになる」のです

特別なことではありません。普段私達は常に真理に触れています。離れたことなどありません。「味う」これが実在です「呼吸する」実在です

「自身が呼吸になる」これが体感として「実在するものに気づく」ことです
この「呼吸になる」は言葉にはできません
ただそこに喜びが溢れてきます、本質です

中々集中できない人はそこに「心を込める」のです
主婦の人なら例えば洗濯物を畳む行為ひとつとっても出来ます。
普段はそんなことは無駄なこと、めんどくさいことですましていませんか?早く終わらそうとか、、、
そこに「心を込める」と自ずと丁寧になる不思議があります

普段思考に振り回されて、真理である実在するものを疎かにする
これが慣れてくれば、次元の違う気づきがやってくるということです。

「言葉にならねぇー」「空」の意識とも言えます

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