「言葉にならねー!」
簡単に言えばこれが「空」の意識です
ですから、何かいつもと違う感覚を味わった時というのは「言葉にできない」のです
悟りを具体的に人々に説明するのは不可能です
私達も「悟りを開く」感覚としては、とんでもないことと捉えます
「覚醒する」いやいや頭からこんなことは無理となる言葉です
禅の教えのひとつは「言葉の魔法にかかってはならない」です
霊的に言えば
私達の地球圏はバイブレーションが最も低い世界です
高い所のことを低い人に伝えることは不可能に近い。
極端ですが、東大の数式を幼稚園児に伝えられないのと同じことです
「識る人は語らず」という名言があります
語らずではなく語れないのです
でもそんなことを言っていては学ぶことはできません
このブログを例えば地図の役割とすれば、肝心なのは実際にそこを体験することが全てなのです
知識の先は、より深い知識でしかありません
釈迦が説く「無我」これを解説した天才の弟子達が作った経典が難しすぎて、人々がだんだん離れている
だから龍樹の説く「空」が偉大となるのです
大乗仏教はすべてこの「空」から始まりました
龍樹は仏教の救世主です
今の大乗仏教は最終的にはこの「空」へ行き着きます、、、ね
「悟る」は無理でも
「気付く」はなんとなく私達にでも理解できそうなきがしませんか?
実際「気付く」は正しいのです
だから私は悟るとか神とか波動や法則とか魂とかのオシャレな霊的な言葉をあまり使いたくないのです
「重い概念を」伴ってしまいますからね
実際「真理を悟る」と聞けば何か遥か遠くにあるものと感じてしまいますが
「事実に気付く」ならなんとかなりそうです
でも意味は同じなのです
「真理は実際には元々自分と共に目の前にあった!」、、、と、気付くのですからね
真理と言われるものを定義してみます
私は「実在するもの」と理解します
なにかが判ったとか何かに気付いたことではありません、これはあやふやな理解ですから実在ではありませんね
「真理に目覚めるとは実在するものに気付くことで在る」
では実在を定義してみます
実在とは確実に存在し、さらに決して変化したり消え去ることのないもの、、、はどうでしょう
目の前の世界は、常に変化します。例えばあのビルも百年後にはない可能性もある、つまりいつかは消えていきます、全ての物質はそうです、そうです「フィクション」です
自然は常に変化します、昨日の木と今日の木は微妙に違います
現象は、常に現れては消え去ります
人間もそうです、肉体も毎日変化していきます
思考も、感情も意識も常に現れては消えていきます
実在とは永遠であること、、、
現れたり消えたりするものは実在とは言いません
それを完全とは言えません
それらは「在るともないとも言えない」もの、「空」です
想念や思考、感情は実在ではない、、つまり「私は実在するとは言えません
では、永遠に完璧に現れ続けて変化することのないものは
「今ここに在る」事実です「今」です
何も難しいことはありません
私達は生まれてからずっとこの「今ここに在る」と共にあります
「在る」が概念が創り出す言葉により、見えるとか聞こえる、味わうになり、そこに「在る」は忘れ去られています
例えば「エネルギー」とは?
と聞かれるとなんと答えますか?、火や油、太陽、土、水、気力、、たくさんの答えが出て来ますね
これらは全てが「エネルギーの表現」であり、エネルギーそのものではありませんね
これと同じです
思考や想念、感情、私達の全ての精神的活動
例えば「思考」は「在る」の表現です
街の景色も大自然も感情も思考も怒りや不安も全てが「在るの表現」なのです
その表現を追いかけているうちはその裏側にある真理に気付かないのです
釈迦は誰よりも瞑想した上で
「これが自分だ」と言えるようなものは何もない、と気付きました
何もかもが無限に入れ替わり続け、現れては消える、、
それを「無我」と言うのであって、ただ単純に私など存在しないと言うことではありませんよ
その中で永遠で確実にあり続けるもの
それが気付き、つまり「在る」で在ると言うことです
「気付く」だけが実在するものです
天井を見るとライトが在る、ライト自体は「空」でありただの現象、でも今ここの「ライトが在る」という五感が捉えた事実は変えようのない実在するものです。この単純さが重要なのです
飛行機の音が遠くで聞こえる、、ではなく
音が今ここに「在る」です、「在る」意外全てが「空」です
怒りが湧いてくる、、ではなく怒りと名付けられ怒りと思われる感情がそこに「在る」です
これは、ひとつの側面として「何も起こってはいない、、?」に繋がるのです
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