「空」という「概念」
その最たる「空」が私達人間です
昔会社の同僚だったインド人のアジットさんがインドに帰国して向こうの支社に移り、一か月ほど私はインドへ出張しました
仲良しでしたので色々インドを案内してもらいました。
ベナレスで、インドの探究者が瞑想しているのを見て、アジットさんが私に言った言葉が今の私の原点となりました
アジット「あの人達何してるかわかる?」
私「瞑想よね?」
アジット「だから、なにを目的にしてるのかと言うこと」
私「悟り?」
アジット「それもあるけど、あの人達は自分探しをしてるんだよ」
何故か感動しました
自分を探すだけにあれだけガリガリになり、何時間も炎天下の中瞑想してることにです。
よく自分探しの旅みたいな表現を聞きますよね?
それ、何となくわかります
誰も知らない土地で、会社の肩書きや、家族から解放された中、自分というものを見つめ直す旅
「私って何?」
吉田拓郎のむかしの歌
「今日までそして明日から」
すごい歌です
「私は今日まで生きてみました、時には誰かと手を取り合って、、、」
この歌の内容は、今まで色んな私として生きて来たけど、これでいいのか?誰が真の私なのか?
明日からもこうして色んな私で生きていくのか?
いや、私には私の生き方が必ず在る、それは多分自分というものを識るところから始まるのでしょう
けど、そんなこと考えていても、どこで自分がどう変わってしまうか、わからないまま多分生きていくんだろう、、、、という歌です
この詩を
例えばこう書けばどうでしょう
時には誰かを裏切って
時には誰かに裏切られて
時には誰かを傷つけて
時には誰かに傷つけられて、、、
これ全てが私なのです
拓郎は何を言いたいのかの真意はわかりませんが
私がその時受け止めたのは、何が本当の自分なんかわからんですよー
てな感じでした
今改めて確信しているのですが
そうなのです、自分がない、だから「自分探し」は苦しいし、答えなど出ない
自分が全くないというのではなく
こうで在るという動かしようのない絶対的な「自分」など存在しない
常に何かに影響され、自分でない思考に振り回されて、その時その時現れる自分という感覚を、これが自分だと無意識に信じているということです
私自身が「空」
在るとも無いとも言えない存在なのです
私はこうで在るという確信はありますか?
こうで在る、、と「思う」ではないですか?
これが全ての錯覚の根本なのです
私がいるからあなたもいる
私がいるから対象が在る
だから、対象について悩む
対象は、あなたの中に映し出された映像(心像)です
釈迦はそれを体感したのです
「自分なんか存在しない」
「無我」とは我が無いと書きます
以前私はその「我」を自我意識と捉えて、その私の中の自我意識を無くせないかとしていたのですが
そうではなく
「我」つまり、自我意識とは「私」そのものだったのです、、、
拓郎の詩を深く取れば
周りがあるから自分が在ると勘違いしてるのでは?
逆も然り、自分が在るから周りがある、、
と、ならないでしょうかね?
だからと言って自分を知ろうなんて無理ですよ、、
現実にどっぷり浸かってしまっているのですからね
一度聞いてみて下さい
考えれば考えるほど深い詩、、なのです
あ、古いけど
「間に合うかもしれない」も面白い
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