私達は全てが受け身だと言う事実についてです
そうなのです
全てが受け身です
考えてみてください
日常見えるものは勝手に見えます、見ようとしなくでも見えてしまいます。
勝手に音が聞こえます
音楽を聴こうと思い、聞いたとします。これは聴こうと思うことが自動でやってきています
周りを見渡せば
嫁は嫁の役割をしています
それは嫁によって多少の違いはありますが、嫁の役割をします
子供は子供の役割をしています
会社は会社としての役割をこなしています
上司は上司の、部下は部下の役割をこなします
家は家の役割、車は車の役割をしています
太陽は太陽の、月は月の、雨は雨の役割をしていませんか?
思考もそうです
今さっき、パンを焼いて食べました。パスタも、白飯も、卵も、外に食べに行くという選択がある中「パン食べよ♪」と浮かんできました
もしも、別に何も目的もなく、何かや自分を変えるという意識もなく、自分の性格を治そうとか、誰かの悪いところを治そうか、自分はこれではいけないとか、、つまり、現状を変えようと思わない人がいたとします
その人は、全て流されるまま何かに身をゆだねてるとは言えませんか?
本人は自覚はないですけどね
例えば今この拙いブログを読んでくれている今、そんなことなにも考えていないとするなら、全てが受け身で流されるまま、何かに身を委ねているとはなりませんか?
何かに身を委ねる、流されるままに生きると言いますが、肝心なことは、そもそも私達はそれしかできないと言うことを認識すべきです
ただそこに身を置いておくのです
間違おうと思っても間違いのない道(タオ)がそこに在るのです
何かを変えようと思いました、、、これも含めてです。
何かをするとか目的を持つとか、何かを変えるという考えは、自分の思い(都合)を満たすと言う行為です
それ自体は自動でやってきていますが、問題はそのために例えば
「とうしようか、こっちにしようか、何て言おうか、どう行動を起こそうか、、以前間違えて大変な思いをしたから、後悔だけはしたくない、、、ああどうしよう😨どうしよう、、、」
こうして道を決めたとしても、起こるようにしか起きないとしたらどうですか?
起きることは何をしても起きるし、起きないことは何をしても起きないとすれば?
なにかスピリチュアル的な人には怒られそうですが、、w
でも、例えばカルマを学びそれを実行して良いことには良いことが起きたとします。でもそれもシナリオ通り身ですからね
起きることはなにをしようが起きるし起きないことは何をしても起きないのです
これを理解すれば
逆に言えば、思いつくままに何をしてもいいのです
もし、このことを理解して実践しても、悪い行動は起こしません、人には良心の呵責というものが備わっています。
まあ、「はいそうですか、今から好きなことをします」とはいきませんよね
瞑想や聖地巡りやカルマの法則や色んな法則を実践するより大変かも知れません
が、「大変だ」「道は遠い」という意識が大変さを生んでいると考えればどうでしょう
意識を変えるのは並大抵ではない、、という思考がそうさせているとすればどうですかね、、と言うことです
これを読んで
「いや、そんなことはない、自分の道は自分で決めなければいけない」
「みんな決まってるなら何をする気も起きない」
いろんな思考がありますが
その人は、その考えが自動で起きたということですから問題なしです。
ありのまま、この究極が老子の説く道(タオ)の哲学になるのです。
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