『十方無限世界即ち我の身体成り』
釈迦が悟りを開いた時の言葉だそうです
この言葉の「即ち我の身体成り」
これをどう認識しましょうか
十方とは東西南北に北東、南東、南西、北西、そこに前と後ろを入れたものです
つまり、世界は我の身体ということ?
この身体は五感ですね、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるがイコール外の世界で在ると言っているのです
この意識状態を最近では「ワンネス」という洒落た言葉となっていますね
外の世界全てが私の身体(五感)なのだ、、、です
この仕組みはシンプルです
「世界はあなたの中に在る」
これで解決します
目の前に街の景色が広がっています
「遥か遠くにある山々」
「あそこに在るビルと線路」「そこに立っている看板」「ここに在るベンチ」
「手に触れている車の鍵」「あそこで佇んでいるアベック」「目の前で説教する嫁w」
これら全てが「分離」です、対象です
山々やビルや道路や雲や木、そして人など沢山の分離された存在があり、そしてそれらが外側に分離され存在していると感じるということです。そして人は自由意思が在る個人だと錯覚しているので、どうにか外の世界を自分の思うように変えようという動機が生まれます
そうではなく、あなたの中に映像として街や人が映り込んでいるだけです
そこには大きな深い意味があります、、、「なにも意味はない」という途轍もない深い意味です
今私の目の前に愛犬が爆睡しています、少しいびきが聞こえます
これは愛犬があなたの「中に」映り込んでいて、いびきがあなたの「中で」聞こえているだけ
そこの電信柱まで歩いて行きました
では、なぜ歩けるのか?
固定観念です、「歩ける」という強力な固定観念です
飛べるという固定観念を持てば人は飛ぶこともできるのです。
多分誰もが記憶がないと思いますが、赤ちゃんの時初めての一歩はかなりの勇気がいったと思います
実にシンプルです
風が吹いてきました、これあなたの中の感覚ですよね
誰かの感覚はあなたにはわからないし、ありません
あなたにしかその強さや冷たさ優しさなどはありません、あなただけの風です
「俺とお前は別々だよ、お前が芋を食べて俺が屁をこくはずがないw」
これ、寅さんの映画の中のセリフです
全く別々の世界で生きているということです
このセリフとても意味深いです
山々は遥か遠くにあるのではなく、あなたの中に在るのです
日常の世界、これは全てがあなただけの感覚で成り立つのです
だからあなたが目を閉じれば世界は消えます
「いや、ちゃんとありますよ」
それは記憶の中だけにあります
後ろを振り向けば、さっきの前の光景は無くなるのです
つまり、対象や分離など本来存在しないということです
あなたと私、私と家族、私と会社、私と社会、、、
これが存在しないのです
全てが「あなた」なのです
遠くで救急車のサイレンが聞こえてきました。
救急車の「ピーポー」は遠くから聞こえるのではなく、あなたの中に救急車のサイレンが存在したのです
そして、遠くではなく、あなたの中にただ在るだけです
遠い、近いは、あなたの記憶です
あなたの感覚がなければ「ピーポー」は存在しないですよね?「ピーポー」はあなたなのです
これが
「即ち我の身体成り」の真意です
目の前であなたに暴言を吐いている奴は、そこにいるのではなく、あなたの中に映り込んでいる奴、、つまりあなたなのです
神社に必ず在る鏡の意味です
もしもこの感覚を体験すればどうなるでしょう。全てが愛おしく感じるでしょう
全ての存在へ感謝の念も起きるでしょう
困ってる人がいれば放ってはおけません
楽しそうな人がいれば、自分のことのように楽しくなるでしょう
怒ってる人がいれば「大丈夫」と言ってあげたくなるかも知れません
宮澤賢治の「雨にも負けず」の世界です
この感覚が「慈悲」という言葉となったのでしょう
この感覚はいわゆる覚醒です、ここまで行かなくとも、この感覚を意識することはできます
分離は思考や考えではできません、これは分離意識(自我意識)という強力な「エネルギー」です、それに人が支配されているのです、それを消し去るにはそのエネルギーに供給を与えないことしか手はありませんね
イエスは救世主として地上にやってきたのですが、この分離のエネルギーに支配され、救世主のイエスでさえ10年近く悟り直すのにかかったらしいです
意識は誰かが変えてはくれません
自らが体感するしかないのです。少しづつ少しづつですね
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