私は思います
理解という感覚は「なんとなくわかる気がする」が大切なのだと
観えないものを求めるなら、当たり前の感覚だと感じます
「識る者は語らず」
これは、語らずではなく、語れないのです
自分など存在しないなど言われても、普通なら100%聞く耳はもてないでしょう、当然ですね
焼き肉を食べているシーンがテレビで映っています
「思わず」あなたの心が
「焼き肉食べたい!」となりました
この、焼き肉を食べたいという思考、、、言葉通り「思わず」ですね
その焼き肉を食べたいと思った瞬間を観察すると、自分の思考が自分なのかが怪しくなります
「焼き肉食べたい!」と思ったのは誰なんだ?
テレビでそれが映されなかったら、もしくは映されていても見てなかったら、または満腹なら?その思考は現れていなかった、これは確実ですね
バカみたいに当たり前の日常の光景ですが、これが重要なことなのです
もっと深く辿れば、この映像を観るのに、生まれた日、時間、男か女、その日の気分や天候、焼き肉を食べたいと思って食べれる環境、焼き肉と言う食べ物が生まれた事実、テレビの編集、無数の様々な流れが関わってそこで観るという「偶然」が生まれたということです
これが縁起です
感情なんかもそうです
「今から虚しい気分になろう」と思い、虚しい気分になる人はいないです
「さあ、今から怒るぞ!」で怒れない
思考も感情も湧き上がってきているのです
そこに外側からの映像や出来事です
釈迦は誰よりも「自分とは何?」を観察した上で
「自分とは〇〇だ!」が何ひとつないことを悟ったのです
全てが縁起であり、全てが「入れ替わり」そこに自分という錯覚(自我)が生まれているのだと悟りました
想像(創造)してください
あなたが客観的に自分を捉えて日常を暮らしているとします。自分が主人公の映像です
腹が立つこともあるでしょう。嬉しいことや面白いこと、めんどくさいことや悲しいことも観えます
それを当然受け止めるのですが、そこに実感が伴うでしょうか?
つまり、人生の苦しみと言われる原因が、「自分」だと言うことです
「全てが変わっていく世界」
全ての思考や感情が瞬間瞬間に変化しています
これは外の世界と同じです。ほんの数秒前、床で寝ていた愛犬が今はソファーで寝ています
床で寝ていた愛犬はもういません、一瞬カラスの鳴き声が聞こえたけど、今は聞こえません
「あ!カラスだ」は、もうありません
表を向いているコインを裏返せば表はありません
「表は在る」これは記憶に過ぎません、「今」表はなく裏しか存在しないのです
全てが変化する世界の中で
「変わらない自分」など存在できるはずはないのに、「こうだ!」という自分を創り出そうとする、この行為から「苦しみ」が生まれるのです
誰かのほんの些細な一言で「そんな言い方ないやん!」と思い、怒りが込み上げる
簡単な理解です、
この「そんな言い方ないやん!」が、その言葉に反応して、その時変わらない自分を創り出している行為なのです、でもすぐ消えてなくなります
私はもうすぐ55歳です
「老いていく」という「苦しみ」を避けるために、運動したり、サプリメントを飲んだりする「自分」を作る、、、これ苦しみの原因「自分」です
会社の上司や同僚から嫌われない、信頼される自分を作るために、嫌なこともやり、思ってもいないことを言い、笑顔を作る、嫌なことがあっても我慢我慢、、、これ自分が苦しみの原因です
でも、じゃあ一人で生きていけと言うのか?
いやいや、その方が上手くいくのですよ、、、
釈迦の言葉があります
『「おれがいるのだ」という慢心をおさえよ。 これこそ最上の安楽である。』
慢心、、、この解釈、、人それぞれということです
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