「そしてあなたが自分では何もできないのだと完全に諦め、本当に自分を開け渡した時に初めて神様の温情が流れ込むのです。」

私はこの「神様」は「愛」のエネルギーと確信しております

3Dという画面に映し出された現象世界の中に、私という仮想が放り込まれ、私が主人公の物語を、親、子供、男、夫などの役割を演じながら、あたかもそこに個人の「私」がいると錯覚された人生を楽しんだり、苦労したりしながら生きている訳です

そこには、苦難や悲しみ、不安、孤独というものも、当たり前のように存在していると私達は錯覚しているわけで、その中で、自分に都合の悪いものを裂けたり、それと戦ったりするのですが、中々都合よく進まないのは現実という幻影(マーヤ)であるからですが

その愛のエネルギーは、どこにあるのかと言えば、映画を映し出しているスクリーンそのものが愛であり、慈悲であり、表現を変えれば神なのだと思います
そして、それらは「あなた」そのものでもあるわけです

どこかに愛や神が存在するのではなく、あなたそのものであります

人生は学びの場と、よく聞きます

なにを学ぶのか?
何の意味もない、、ということを学ぶのです

よく、人生の全てに意味があると聞きますが、そうなのです、なにも意味がないという意味があるのです

それは、私を捨てること、解放することができた時、私は愛そのものであるという疑う余地もない感覚が湧き上がるのです

亡くなられた木内鶴彦さんてご存知の人もいるかと思います
あれだけの経験と知識やスピリチュアル能力を持ちながら、何の講釈も話さない、ごく普通のおじさんです

臨死体験している時、ビックバンを見に行きました。そしてその以前を観に行った時最後、つまりこの世の始まりに存在していたのは私本人だったそうです
つまり、私の中で宇宙が生まれたということです。

そして誰かが質問しました
「人はどのように生きて行けばいいのですか?」と

その答えは単純ですが見事な答えでした

「楽しめばいいんじゃない」、、

正に究極は、私達は楽しむために生まれてきた、、のですからね