こう想像(創造)してみて下さい

普段「わたし」と思われている存在は存在しません。
それはイコール自我意識と呼ばれるものです
自我意識とはわたしは個人で在るという錯覚した意識のことです。つまり「私」はいません

五感がわたしなの?と思われてしまいますが、それは窓口のようなものです

そして本来その「わたし」を超越した、存在が本来の私だと想像してみてください
心奥で平安の中寝転んでいますw

つまり、本来の「私」へダイレクトに五感からの情報が伝わっているのではなく、その間に「わたし」という「フィルター」を通しているのです

例えば、目の前に苦と判断した現象があります
本来はそれはそのような行動や言動が、ただ顕れているだけなのですが
私は個人という意識があるので、それが私に起こっていると勘違いします

なんでもそうです
不安にさせる現象
怒りを覚える現象
楽しくて愉快な現象
何かの問題が起きているという現象

これらへの意味付けはそのような名や意味を幼い頃からどこかで身につけたもや性格や過去生によります

例えば妻に
「ほんと、いい加減な人やね」と言われたとしましょう。(たまにあります)

まず、それを一瞬のうちに自分で意味を考えています。一瞬です
私の場合
「あたってるやんけ」ですが、、、

でも、むちゃくちゃしっかりとしているところも在ります。(自分で言います)
だから、その言葉自体が「ええ加減」なのです

「しっかりもするし、いい加減でも在る」

「空」です

また、そこに例えば
嫁に言われたから静観する
〇〇(友人)に言われたら腹が立つ
息子なんかに言われたぐらいならどつき回すかもしれないです
怒りも有り、静観も有り、納得も有り
つまりは、なにも無いのです

さらに
もし、その言葉を、満遍の笑顔で言われればどうでしょうか?
「ごめーんね❤️」となる可能性は大ですが
般若のような目で言われたら、「なんだと!」となるかもしれません。
まあ、私の場合は言えないので、拗ねてちょっとの間しゃべりません。
また、上機嫌の時言われるのと機嫌の悪い時とも違います

私は誰ですか?w
その時その時に対応した自分が在るだけ、つまり「私」という変わらない本質は無いのです。
その、その時その時の自分を「私」だと勘違いしています。数で言えば数億数兆通りの縁起の中に組み込まれている存在を私達は「私」だと錯覚しています

例えば車を運転していて、急に割り込んできた車がありました。一瞬ですが、その運転手はイカつい人で助手席にも同じような人が乗っているのが見えました。

全てが時間にすると「一瞬」です、どうしますか?

もしも、それが気の弱そうな「おばちゃん」ならどうしますか?
だから、ついついカッとなってなどはあり得ないのです。

いい加減な判断です

それもこれも全てが「私に」起こっていると思ってしまっているからです。

また、その出来事はすぐ去ります
「ええ加減やね!」と言った嫁は、すぐスマホを見ています。
で、その「言葉の記憶に」腹を立てたり、怒ったりして大切な「今ここ」をまったく観えなくしています。

五感そのものを大切にしていますか?
いらない意味や感情、思考、記憶を取り除くと、五感だけが残ります。

この時の五感の精妙さは半端ではありません
そのものが「真理」です、実在するものです

『君は風になれ 子供達の風車を
くるくる回す やさしい風になれ
風が光るのを見ましたか
風が詩うのをききましたか
風が通り過ぎたのを見ましたか
風が話すのをききましたか♪
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
風が躍るのを見ましたか
風の足音をききましたか
風が手を振ったのを見ましたか
風が笑うのをききましたか♪」』

これは私が敬愛する亡き河島英五氏の「風になれ」という歌です

五感を研ぎ澄ますと
風ひとつをとってでもこのような観察が起こります

想像してみてください
もし、風ひとつでこれだけの感覚を覚えることができる楽しさを、、、

信じられないかも知れませが、見る世界も全く違います、現実は変わりませんよ
イメージで言えば世界が「輝いて」見えるのです、キラキラです、そしてそれがワクワクになります。

全て余計な「わたし」を取り除くことができれば、、です
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