私達は常に「もっと良くなりたい」「もっと幸せになりたい」と何かを追い求めていますが、その追い求める行い自体が、すでにある平安や幸福を見えなくしています
まず否定(苦)ありきです
お金がないからお金持ちになりたいです
モテないかモテたいです
仏教がそうです、この世は苦で在るです
そして、常に苦では無い「なにか」を追っかけています。
楽が最初に出る場合もあります、が、そのためには「苦」が必要です
いい大学に入りたいから勉強という「苦」を経験する。お金が欲しいから嫌な仕事を頑張る、、、
もし、苦ではなく、幸せが既にあったらどうしますか?
ひとつの捉え方、想像(創造)です
今日一日なにがありました?
「今日は朝電車が遅れて、会議に間に合わなかった」
「歩道を歩いていると、自転車にぶつかりそうになり、睨まれた、なんで?」
「昼、美味しいと評判の定食屋さんにわざわざ行ったけど、言うほどでもなかった」、、、、
それだけですか?
その他の時間の中に「幸せ」があるかも知れないですよ
人は「嫌だな」という感じの時に「自分」が現れます、そしてそれが自分に降りかかってると勘違いして、平安や安心を追いかけます
苦が先にやって来ます
そしてその感情が印象として心に刻印されます。
じゃあ今日一日思い出すことすら出来ない、何もなかった時間は、「私」はいないはずです。そこに注目してみてください。
自分に嫌なことが在るという錯覚を捨て、既に幸せはここに在るということを想像していく、例えば階段を降りる時の足裏の感触が心地よいとか、空を見上げた一瞬の感覚が言葉にならないほど気持ちいいとか、街路樹の緑がいつもより美しく見えるとか、町を歩いていたおばあちゃんの笑顔が可愛いとか、、ほんの些細な「今」に注目していると想像が創造となり、それが自分の心の叡智となります
これは頭で考えないことです。街路樹を見た瞬間、思考が働く前の一瞬を磨くのです
思考というものは追いかければ追いかけるほど、自分自身から遠ざかるのです
ただ、何も考えず、自分や外の景色が「ただそこに在る」という感覚が生じれば、その時は本当の自分(今ここ)に一番近いのです
複雑な理論や見えないサイキックや神を追い求めるのが覚醒への道ではなく
実にシンプルな表現こそが
「幸福」への近道だと確信している次第です
人は常に、自分に降りかかる「苦」を「恐れます」、無意識に恐れて、それを避けようとします
そうではない感覚を詩にした歌があります
『当たり前に過ぎゆく毎日に、恐れるものなど何もなかった、本当はこれで、そう本当はこのままで、何もかもすばらしいのに』
エレファントカシマシの「風に吹かれて」です
何もない日常がただ素晴らしいのです
この「風に吹かれて」もいいですね
今ここの唯一の現実感は、風が吹けば自分は風になってるという感覚を覚えます
それは言葉にはできない感覚となります、、、