これはお互いに依存して初めて夫と妻となります。夫がいないのに「わたしは妻」はあり得ません』(昨日)
「空」は縁起とも繋がります。
私と妻が出会いました、、それ縁起ですね
頑張って思い出しました。
出会ったのは秋祭りの日でした、もしもその日私が三分家を出るのが早ければ妻とは出会っていません。乗ろうとしていた電車に間に合わなかったのです。
三分遅れたのは財布を探していたからです、財布はいつも同じところに置いているのですが、たまたま前の日疲れていて玄関に何気なくちょうどいいスペースがあったので置いたのを忘れていました。
その玄関にある籠は、たまたまその前の日部屋を片付けていたらちょうどいい籠があったので玄関に置いたのです、籠がなければ財布はそこには絶対置きません(置くところがない)、、、、
まだ遡ります、その前の日たまたま昔の友人と駅で出会い、喫茶店で話をしていたら友達が「飯でも行こう」と誘ってきました。いつもなら家で母の夕食があるので断ったのですが、たまたま母が風邪で寝込んでいて、、、、そしてそこから「飲みに」行き翌日寝坊しました
思い出しましたが、そもそもその籠は妹が私の部屋に籠に入れたお菓子を持ってきてくれて、そのまま忘れた籠です、、、
遡ればもっと前まで必ず行きます、例えば30年前額に大きな「ニキビ」ができたのが関係しているかもしれませんし子供の時腕を骨折したから来てるかも知れません
そこに指導霊からの誘導や神社でのご利益🤩があるかもしれません
これが「縁起」です
たまたま「掃除!」と思い立ち、部屋にあった籠が「玄関にちょうどいいかな?」という考え(思考)が自動でやってきてなければ、その籠は玄関にはありません。なければ財布はそこには置かずいつもの場所にあり、財布を探す三分がなく、嫁とも出会っていないのです
当然出会ってなければここでブログは書いていません。
つまり
私は部屋の片付けを玄関に置く籠を探すためにしたわけでもなく、たまたま余った籠が目に入り、自動で思考が玄関に置こうと思った、、、、これが「無い」自分の意思ではありません、思考が自動でやってきました。その結果妻と出会いました、、これが「在る」です
無いようで在る、在るようで無い、、、「空」
逆も然り、籠(在る)があるから自動で「玄関」という思考(無い)が生じる、、「空」
そして、この縁起により全てが自動で自分の世界が動いていると釈迦は悟りました
この縁起がたまたま起こるのではなく、初めからシナリオ通りに創られたドラマに私があたかも私がいるという錯覚を起こして、、今ソファーに寝転びスマホを見ている私がいるのです。
私は今まで何もしていません
考えればその現象世界に流されるまま今に至ります、そしてその過去の記憶を色々遡れば「感謝」しか残りませんでした。
籠を置いていってくれたお陰で妻と子供に出会えたので、妹に感謝です
風邪をひいてくれた母にも、飯に誘ってくれた友人にも感謝でした
私は何もしていないのではなく、そもそも「私は」存在しないのです
自動で思考が働き、勝手に身体が動いて、自動で感情が現れ、自動に感謝が生じています
となれば
「私の苦しみ」
「私の悩み、不安、嫉妬」
当然
「私の喜び、幸福感」
それは存在しません
「空」です
そう聞けば
「じゃあ人生は何のためにあるのか?喜びや幸せがなければ生きていてもしょうがないのでは?」、、と無意識に思うでしょう
その「喜び」はその場だけの短期的な喜びです、ちょっとした褒美みたいな程度です
空の意識には「喜び」しか存在しません
イエスはそれを「愛」と名付け、釈迦は「慈悲」と表現しました
この覚醒した時の「喜び、ワクワク」を言葉でわかりやすく伝えたヒンズー教の経典の説明があります
喜びのレベル
『まず世界中のものが自分の所有物となって、それら一切の所有権を手に入れたとした時の地上的な喜びを「マヌシャナンダ」と呼びます。このマヌシャナンダの百倍の喜に当たると言われる「インドラナンダ」。
それの百倍の「ディヴェンドラナンダ」。そこから百倍、、「デーヴァンナンダ、、百倍プリハスパティアナンダ、、百倍プラヤバティアナンダ、、、、さらに百倍、百倍と続いた後、、つまり地上的な喜びの一兆倍にあたる至上の喜びが「プラフマナンダ」』
これが気付き、覚醒、悟りを得た時の喜びだそうです
そして私はパラフマナンダはおこがましいので、「インドラナンダ」を夢見ているのです、、