そもそも「神」の定義とはなんなのでしょうか?
人それぞれ「概念」として持っているだけの曖昧なものです。
「誰も神を見たことがない」とはイエスの言葉なのですが、イエスも見たことがないのです。
例えば、「真理」「大いなる生命」「ただひとつの生命」「宇宙」「魂」、、
神と同意語がたくさんありますが
これを完全に理解するのに真我(普遍意識)が完璧な働きをします。つまり神とは真我(普遍意識)となります
「神様はあなたが持っている虚栄心、嫉妬、嘘、執着、貪欲さ、自己、重要性、狡さ、すべてわかっています。」
これらを大きな意味で言えば「否定的」な想念です
それには必ず反対の「肯定的あります、嘘には本当、執着には断念、、、幸せには不幸、喜び悲しみ、善と悪
例えばAさんとBさんが意見の違いで言い争いをしています。右か左かでもいいです
どちらもそれなりに根拠をもっているので引き下がりません
この根拠は大したことはありませんね、拙い体験や人からの知識ですが、その大半を占めているのは自分の思うようにしたいという自我です
これに正しい答えなどありません、あるのは右ですか?と左ですか?ということだけです。
このことに共通するエネルギーはそのことに対して心をはたらかせているということだけです、両方同じエネルギーに心を働かせているだけです。
人の意見をなんでも信じる人となんでも疑う人は、そのことに対して心を働かせている、思考を巡らせているという点で同じエネルギーなのではないでしょうか
愛の最も未熟な表現が憎しみなのではないでしょうか
これらを神はわかっています、、
というより、そんなものは存在しないとなるのですが、いや、存在はするのですが、それらに意味はないのです
太平洋にある、とある島の集落の話なのですが、その島の人々には「盗む」という「概念」がありません
何かが自分の家になければ隣の家に入り勝手にもらってくる、日本なら盗んでくるです
この島では全ての人の所有物は神からの贈り物であり、誰がなにを使おうが全く問題はないのだそうです、全然ありえる話ですね
神の視点からすれば、例えば嘘ばかりつく人という視点はありません、
嘘と本当は二元論、どこがで誰かがこのような行為を嘘と名づけ、それは絶対許されないことだと定義つけた概念です
かと言って嘘が別に良いのかと言えばそれは「✴︎カルマ」という別の法則や動機というものが働きますが
神の視点では嘘も本当もただそこにある想念の「想念体」です、本来は実在しないものです。
あなたのつく小さな嘘も私のつく大きな嘘も同じ嘘です、その(嘘と本当)想念がエネルギー形態として観念となり、人がそれが間違いなく在るものだ(憑依)と思い込んでいるだけです
実相としては、人の想念が現実のエネルギーとしては一番強い世界がこの地上世界です。
想念をコップの中の水だと仮定します。そのいらない想念を除いて中の水を空にすれば、そこに神の愛が注ぎ込まれます、大きな喜びも注がれます
日常の些細な判断から大きな決断は常に内側から啓示されていますということではないでしょうか
ここで肝心なことは、愛と憎しみがあれば人は愛を選ぶではなく、悪を排除しているのだいうことではないでしょうか、これが重要だと思います
「かんながら」という言霊があります
「神様に委ね、お任せします」という意味です
かんながら、、神と共に、、です