大きな楠木の下に在る古いベンチにまた突然座っている。子供の時このベンチはお気に入りだった、「はすか
い」に在る神社の本殿から神様がひょこっと顔を出し、あたりを見回す時があった。子供だったので(でも小学生)神様は本殿の中で本当に暮らしていると思っていた
私はある時点まで少し霊感があった
横を見ると髭もじゃの老人が座ってる

老人「このボールペンは誰が見てもボールペンじゃ、の続きじゃ

では、お前の目の前に広がる世界を観察しようか、何がある?」

私「え?神社や森、空や雲もお母さんと小さな子供もいるし、あそこに猫、通りには車と自転車に乗る学生、太鼓橋と鳥居、鳥も飛んでる」

老人「そうじゃの?
そのひとつひとつはどこかで誰かに教えられたか何かで学んだんじゃな
それは当たり前にそこに在るということじゃが
森を見てみな、大きな木や枝、葉っぱ、枝には小鳥、小さい川が流れてるのお?花も咲いてるしそこには土や小石、川の側には大きな石もある
なによりその森が生存するに必要な適度な温度や適度な雨の量、そして地球も必要じゃな?
それをひっくるめて森というんじゃな?
じゃあマクロで見るとどうじゃ
全てが素粒子というやつじゃ、想像してみな
素粒子が見れたとすれば全てが互いに繋がっているじゃろ?枝についてる葉は離れると死ぬんじゃ、、、本質はただ一つじゃ
世界がそうじゃ、お前を含めた人間も動物もな

つまりは、人は目の前の光景をひとつひとつに区切るような意識になってしまってるんじゃ、「自我意識」によってじゃ

「人は目に見えるものによって目を覆われている」という見事な僧の言葉がある

大きな木に目が行くと、それに反応して心がはたらく、花に区切れば「何の花かな?、花といえば家の花に水やらなきゃ?」とか、色んなことが心のなかで巡るんじゃ
日常の人間関係も全く同じじゃな?

精神世界の学びはこれと同じじゃ
その背後に在るものを見つめれるようにせな駄目じゃ

この世界は全てがエネルギーで成り立つんじゃ
それら全てがエネルギーが素粒子というものを使って表現されているだけじゃ、物質バイブレーション世界とも名づけようかのお

わかるか?

その目に見えるただひとつのエネルギーが個々に表現された世界にどっぷり浸かってるのが人間じゃ
その目に見える、つまり形あるもの、物質ではなく、形のないその本質を学ばべば良いのじゃ、現象された世界をいくら学んでもそれは観念の積み重ねじゃ

まずエネルギーとか生命、意識とか人間、どれをとっても
森と同じで、エネルギーそのもの、生命そのものではないということを充分理解することじゃ」


私「自分はエネルギーと意識、人間、生命は別々と思い暮らしてきた
木や葉や水や石にも生命は在りますね」

老人「そうじゃ、そこは肝心な所じゃな
同じ素粒子という集合体で構成されているのにどこかで突然生命が誕生するのかなということじゃ

それとな、その無限に在るエネルギーの表現を人間の五感という小さな窓から覗いてるのがお前のような迷った人間ということも肝心じゃ、また話すがな
その制約された五感から解放されることが即ち「悟り」ということじゃ」

そう言って老人は森の中へ消えていった

確かに日常当たり前のように無意識に何かに反応して暮らしている、見たり聞いたり触れたりしていなければ、そこにいない家族やさっき起こった出来事やこの先のことに永遠に思考をはたらかせている
老人はそれを「心をはたらかせ」と言った
これは同じことなんだろうか