四作品である戯曲『かもめ 』、『三人姉妹 』、『ワーニャ伯父さん 』、『桜の園 』の作者として、伝統的な戯曲と対照を成す新たな領域を切り開いた劇作家でもある。これらの戯曲や小説の与えたインパクトは多く暗示と巧みなアンチクライマックス遁辞法 )による。

19世紀末にチェーホフは短編小説に革命を起こした。チェーホフのように第一線で小説を絶えず発表した作家はいなかった。チェーホフはしばしばギ・ド・モーパッサン と比較されるが、チェーホフは伏線 を計算して配置するプロット を凝らした小説にはあまり関心をもたなかったとされる。チェーホフの小説では実際のところほとんど何も起こらない。登場人物とその生活が前面に出てくるのである。モーパッサンが出来事に焦点を当てたのに対し、チェーホフは人物に目を注いだといえる。

典型的なチェーホフの話は外的な筋をほとんどもたない。物語の中心はしばしばある登場人物の内側に起こることにあり、この物語は示唆により、あるいは意義深いディテールにより、間接的に担われる。しばしばいわれることであるが、チェーホフの小説や劇においては何も起こらない。しかしチェーホフは内面のドラマを展開させる独自の技をもっており、それで目立った事件が起こらないことは十分に埋め合わされている。チェーホフが主に扱う主題は労働と愛であるが、登場人物たちはどちらにも関心を示さない。チェーホフの若い登場人物はたいがいが幻想に囚われており、年老いた登場人物は幻滅にさいなまされている。時間の経過がつねに関心の中心を占め、日常のささいなことや脱線、人生の意味の結局は失敗に終わる探求が取り上げられる。

チェーホフは象徴主義 的な演劇 を嫌っており、『かもめ』の中でコスチャの劇中劇 としてパロディー化している。同時に、チェーホフはモーリス・メーテルリンク から大きな影響を受けたとも告白している。チェーホフが影響を受けたもうひとりの劇作家はイプセン である。『野鴨 』(これはチェーホフが気に入っていた作品のひとつである)なしには『かもめ』は現在あるようなものにはならず、それどころか全く書かれなかったかもしれないのである。

1890年の4月から12月にかけて、チェーホフは当時流刑地として使用されていたサハリン島 へ旅行し、自然や囚人たちの生活をつぶさに観察した[3] 。この時の見聞は旅行記『サハリン島』としてまとめられ、出版された。この旅行を通してチェーホフの社会に対する目はより見開かれていったといわれている。翌1891年には裕福な新聞社経営者のアレクセイ・スヴォーリン[4] とともに西ヨーロッパを訪れた。

1892年にメリホヴォに移り住み、ここで1895年の秋に長編戯曲『かもめ 』を執筆した。この作品は翌1896年秋にサンクトペテルブルク のアレクサンドリンスキイ劇場で初演されたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わった。しかし2年後の1898年にモスクワ芸術座 によって再演されると今度は大きな成功を収め、チェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなった。モスクワ芸術座はこの成功を記念して飛翔するかもめ の姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した。

この1898年にチェーホフはヤルタ に家を建て、翌1899年に同地に移り住んだ。ここで短編小説「犬を連れた奥さん 」などを執筆した。またこの1899年にはモスクワ芸術座で『ワーニャ伯父さん 』が初演され、1901年には同じくモスクワ芸術座で『三人姉妹 』が初演された。この時マーシャ役を演じた女優、オリガ・クニッペル と同年5月に結婚した。

1904年には最後の作品『桜の園 』がやはりモスクワ芸術座によって初演された。同年6月に結核 の治療のためドイツのバーデンワイラーに転地療養したが、7月2日に同地で亡くなった。最後の言葉はドイツ語で「私は死ぬ」であったと伝えられる。現在はノヴォデヴィチ墓地 に葬られている

アントン・チェーホフは、父パーヴェル・エゴーロヴィチ・チェーホフと、母エヴゲーニヤ・ヤーコヴレナ・チェーホワの3男として生まれた。兄にアレクサンドル、ニコライ、弟にイヴァン、ミハイル、妹にマリヤがいる。父方の祖父エゴールは農奴 だったが、領主に身代金を支払って一家の自由を獲得した。父パーヴェルはタガンログで雑貨店を営んでいた。

1876年に一家は破産し、夜逃げしてモスクワ に移住した。しかしアントンのみはタガンログに残ってタガンログ古典科中学で勉学を続けた。

1879年に中学を卒業してモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学した。この頃からアントーシャ・チェホンテーなどのペンネームを用いて雑誌にユーモア短編を寄稿するようになった。1884年には医学部を卒業し、医師 としての資格を得た。

チェーホフがこうしてユーモア短編を書くようになったのは、生活費を得るためという現実的な要請によるものだった。転機となったのは1886年に老作家、ドミートリイ・グリゴローヴィチから激励と忠告を受けたことだった。グリゴローヴィチはチェーホフの文筆家としての才能を称賛しつつ、ユーモア短編の量産はせっかくの才能を浪費するものだと警告したのだった。これを機にチェーホフは文学的な作品の創作に真摯に取り組むようになり、「幸福」、「芦笛」、「曠野」、「ともしび」などの優れた作品が生まれた。またこの時期にチェーホフは晩年のレフ・トルストイ の思想に傾倒していたことが知られている。

1887年に書かれた初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』は翌1888年の初演の評判こそよくなかったものの、1889年にサンクト・ペテルブルク のアレクサンドリンスキイ劇場での再演[2] は好評を博した。チェーホフは文壇の寵児となり、おどけて自らを「文壇のポチョムキン 」と呼びさえした。その一方で、退職した老教授のわびしい心情を描いた「退屈な話」(1889年)には、人生の意義を見失い不安と懐疑に苛まれたチェーホフ自身の心境が反映されているとも指摘される。