その頃、私は学校は休み、毎日、上野の図書館に通っていた。学校といっても、勤労動員で通年動員されていたのだから、動員をサボっていたということになる。当時、私は手足の関節が痛み、医者から診断書をもらって動員をまぬがれていたのである。

 それは空襲の翌日だったか、翌々日だったか、上野で顔がすすけ、疲れきって、僅かな荷物を持って右往左往している人々を目撃したとき、私は駄目だと思った。いつかは私たちの家も焼かれる。そして避難しなければならなくなるのだ。そのときは鉄道が破壊されて、東京を出ることも出来なくなっているかも知れない。梅崎春生の「桜島」の主人公は「美しく死にたい」と思っていたというが、私にはそんなロマンテイックな願
いはなかった。ただ、いつかは死ぬ。その時まで私は生きて、考え、感じ、それを日記に書いておこうとだけ思っていた。
私が勤労動員をサボったのは、決して特別な意味があったのではない。私は戦時下に育った人間として、狭い世界に住んでいた。マルクスも知らず、小林多喜二も知らなかった。中学生の頃は藤村を読み、独歩を読み、藤村に導かれて透谷、西行、芭蕉に憧れた。中学時代は受験で本を読むことも困難だったので、高等学校に行ったら本を読もうと思っていた上野の図書館には高校一年の頃からよく行った。学校には一学期は通ったと思う。マントを着て、破れた帽子をかぶり、手ぬぐいを腰に下げ、朴歯の下駄をはいて、いわばバンカラな高校生スタイルで通った。武蔵はお坊ちゃん学校で、そんな風体の学生は少なかったが、学校も何もいわず、取り締まりにあうということもなかった。当時は図書館に来る人はほとんどいなかった。毎日、私は一人の老人と一緒になった。彼は小さな柳行李のようなものにつめた弁当を持って来ていた。そして、警戒警報が出ると、館員に案内されて館外の防空壕に入った。この防空壕の入り口まで出て、青い空で銀色の
玩具のような飛行機が空中戦をしているを見た記憶がある。多分、昭和十九年十一月二十四日の空襲だったのだと思う。
  • 『チェーホフ全集』神西・原・池田編(全16巻 中央公論社 )※新版でも刊行。品切
  • 『チェーホフ全集』松下裕 訳(全12巻 筑摩書房 )-ちくま文庫 でも刊行。各品切
    • 『チェーホフ短篇集』松下裕訳(ちくま文庫 ) 2009年8月に刊行
    • 『子どもたち・曠野 他十篇』 松下裕訳(岩波文庫 )2009年9月に刊行
    • 『ともしび・谷間 他七篇』 松下裕訳(岩波文庫) 2009年10月に刊行
    • 『六号病棟・退屈な話 他五篇』 松下裕訳(岩波文庫) 2009年11月に刊行
  • 『チェーホフ・ユモレスカ』松下裕訳(全3巻、新潮社 )- 1.2巻は文庫化。
  • 『チェーホフ小説選』、『チェーホフ戯曲選』松下裕訳(水声社

回想ほか [編集 ]

  • オリガ・クニッペル 『夫チェーホフ』 池田健太郎編訳 (麦秋社)
  • 『チェーホフ=クニッペル往復書簡』 牧原純ほか編訳(全3巻、麦秋社)
  • マリヤ・チェーホフ『兄チェーホフ 遠い過去から』 牧原純訳(「筑摩叢書」筑摩書房 1992年、旧版が未來社) 
  • 『チェーホフの思い出』池田健太郎編訳(中央公論社) - 近親者たちの回想。
  • ウラジーミル・ギリャロフスキー 『帝政末期のロシア人』村手義治訳(中央公論社、新版が中公文庫  1990年)。
    • 「チェホンテ」のペンネーム時代から晩年までの交流の回想がある。
  • リジヤ・アヴィーロワ『私のなかのチェーホフ』尾家順子訳(群像社ライブラリー14)
    • リディア・アヴィーロワ『チェーホフとの恋』小野俊一訳(未知谷) - 同著の別訳。
  • ペーター・ウルバン編『チェーホフの風景』谷川道子訳(文藝春秋 ) - 写真多数の大著。

伝記研究 [編集 ]

  • アンリ・トロワイヤ  『チェーホフ伝』 村上香住子 訳 (中央公論社 、のち中公文庫
  • 原卓也 編 『チェーホフ研究』(中央公論社) - 初版は「全集」別巻
  • 松下裕 『チェーホフの光と影』(筑摩書房
  • セルゲイ・ザルイギン 『わがチェーホフ』 岩田貴訳(群像社
  • 牧原純 『北ホテル48号室 チェーホフと女性たち』(未知谷) - 著者は他に2冊刊行。
    • 各、同社の「チェーホフ・コレクション」の1冊、他に作品が10数冊訳されている。
  • 池田健太郎  『チェーホフの生活』(中央公論社 ) 
    • 『「かもめ」評釈』(中央公論社、のち中公文庫 )と遺作『チェーホフの仕事部屋』(新潮選書 )がある。
  • 佐藤清郎 『チェーホフへの旅』 (筑摩書房 )※同書房で以下3冊を順に刊行。
    • 『チェーホフの生涯』、『チェーホフ芸術の世界』、『チェーホフ劇の世界』
  • 『チェーホフの言葉』佐藤清郎訳編(弥生書房) - アフォリズム 集。
  • 『チェーホフ短篇と手紙』 山田稔 編、神西清ほか訳(大人の本棚・みすず書房)
  • ロジェ・グルニエ『チェーホフの感じ』 山田稔訳(みすず書房
  • 浦雅春  『チェーホフ』(岩波新書 )- 光文社古典新訳文庫 で『ワーニャ伯父さん、三人姉妹』を訳した。
  • 佐々木基一 『私のチェーホフ』(講談社 、のち講談社文芸文庫
  • 阿刀田高 『チェーホフを楽しむために』(新潮社 、のち新潮文庫)
  • 『文芸読本 チェーホフ』(河出書房新社 ) - 作家論集と短編・戯曲数編。
  • エヴゲーニイ・バラバノーヴィチ『チェーホフとチャイコフスキー』中本信幸訳(新読書社) ISBN 978-4788070288

関連人物 [編集 ]