思うところがあって、アップしていたブログ記事を削除した。
二日ばかり考えてはみたが当たり前のことが残った。
人間的な問題があったからと言ってすべてを否定するべきではない。
正直、成功者が聖人であるかのように人は期待するかもしれないが
清々しいくらいの人間のクズである場合が多いような気がする。
しかし、そうした人物がOUTPUTした「情報・ハナシ・作品」などが
「自分にとって有益なもの」なのであれば切り捨てるべきではない、
という至極まっとうなものだ。
野口英世にしたって石川啄木にしたってその仕事の成果は
素晴らしいが人間性はロクなものではない。
藝術家に至っては、あまりにも「社会不適合者」が多くて数えきれない。
性格や嗜癖、薬物中毒などあげればもう止まらないくらいの勢いになろう。
今なら人格否定の上、全員マスコミの餌食で、庶民の晒しものだ。
「川に落ちた犬は棒を持って叩け」(魯迅)
自分は何一つまともにできない場合でも
人はなぜか有名人に道徳や完璧さを求める。
あるいは、有名人になら「自分の都合や好み」を「正しいもの」
として悪びれることなく言ってよい,と思っているらしい。
先日の石丸氏や柔道の阿部詩さんに口汚い言葉で罵れるのは
匿名や品性の問題もあるが、「負けた強者をたたくこと」を
当たり前のように正当化してきた
マスコミに毒されているようにも思う。
とはいえ、庶民のガス抜き位は
それも必要なのかとも思えなくもない。
国王の首をはねる、といったことを許容しない
暴力絶対反対の変な民主主義が罷り通るこの国では
適当なスケープゴートを庶民に差し出すことで
バランスをとっているのかもしれない。
でも、とばっちりにあった
「ただの」有名人は気の毒というよりほかにはない。
なんでもいいのだが、人は「自分の見方や考え方」を
正当化のために理屈やいいわけをする。
何かを否定する、あるいは、拒絶する場合、実に、必死で饒舌である。
最近は特に、ファクトというがその実、「因果関係」と「相関関係」が
混同しているような理屈で相手の共感を得ようとするか、
説得を試みるように映るものも少なくない。
だが、不思議なことに問い詰めると間違いに気づくのかと思いきや
あたかも「科学的な証明でもあるかのようなご高説」から
「人それぞれ」とか「個人の感想」でお茶を濁す。
決して「自分の間違い」を認めることなどない。
逃げ口上という言葉もあるように、実に分かりやすい。
でも、そんなことはどうでもよくなってきた。
もともと他人の意見にそれほど左右されないと思っていたが、
知識や情報を得るとどうしても揺らいでしまう。
少なくとも、以前はなかった「自分と違う見方」を
する人の立場になって、「どうすればこういう見方になるのか」を
虚心になって分析するようになった。
この歳になって心境の変化に自分でも驚いている。
安易に決めつけることはしない。
まだまだ、発展途上と信じたい。