「そうやってすぐ答を求めるのがアタマだけで考えている証拠だ」 | 井蛙之見(せいあのけん)

井蛙之見(せいあのけん)

毎日、いい音楽を聴いて、好きな本を読み、ロードバイクで戯び
楽しく話し、酒色に耽り(!)、妄想を語り、ぐっすり眠る。
素晴らしきかな人生!
井の中の蛙 大海を知らず 
されど、空の蒼さを知る
(五十路のオッサン、ロードバイクにハマる。)

三谷宏治さんの「戦略読書」を読んでいると「プロフェッショナル本」

のすすめという項目があります。

「超一流の人の言葉」がそれで、「成功したもの」の話ばかりではなく、

失敗も含めてこういった人たちの言葉は、我々ではその領域にはとても達しないものの

とても興味があり、参考になります。

 

忘年会やら飲み会なんかで「昔話になったらただの自慢なので帰る」とかいう人がいますが、

こういう話の中に「今後、自分が直面した時の参考になる話やヒントがある」かもしれないのに

聞こうとしないのは実にもったいないことです。

場合によっては金を払ってでも聞けない情報さえあります。

常に「自分が同じ立場になった時にどうするのか」といった考えや姿勢がない人や

人に訊けば、あるいは、検索すればすぐになんでも答えが出て、自分もできるなど

と勘違いしているバ〇に多い傾向ですが、残念ながら頭で理解するのと体で覚えるの

とはわけが違います。

でもそれがわからない。

 

解剖学者の養老猛司さんがアナウンサーを叱りつけた、という話があります。

ある問題に対して「具体的にどうすればいいんでしょうか?」とアナウンサーが

すぐに答えを求めた際に「そうやってすぐ答を求めるのがアタマだけで考えている証拠だ」

と一喝されたそうです。

人は体を通してしか経験したり得られないものが少なくありません。

とはいえ男が出産というものを経験しようとしても不可能なので残念ながら

すべてのことが経験できるわけではありません。なんにでも、例外はあります。

 

今の子たちは小さい時からなんでもスマホで検索して、いつでも「答えが返ってくる

のがあたりまえ」だと思っています。

それで、なんでも「わかった」つもりでいます。

でも「知る」ことはできても「知識を組み合わせて考える」ことは得意ではありません。

ましてや、時間がかかる体で覚えることはさらに不得意です。

失敗することなく自分の足で探さず手元で「何でもすぐに手に入る」というのは

便利なようで諸刃の剣です。

 

以前、ホリエモンさんが「寿司屋の修行に何十年もかかるの無駄だ」と

言って話題になりましたが、それはこの人が人並み以上に「頭がいい」から

そうみえたのでしょう。

ただ、「知る」ことと「できる」ことは別問題です。

(ホリエモンさんの名誉のためにいますと、それでもこの人は「よせばいいのに」

と思えるようなことも含めていろんなことにトライされて経験を積まれているので

「頭だけの理解」の人とは違うと思います)

職人さんの仕事は一見すると簡単そうにみえますが、その洗練した動きは

何千回、何万回(あるいはそれ以上)繰り返し経験されて得られたものです。

「頭の理解」では簡単そうに見えても、いざやってみればできないもんです。

加えて「自分や他人の動き」、「気づいたこと」など取り入れつつ反復し試行錯誤して

ようやく技術や「自分の形」などをモノにしていきます。

 

厄介なことですが技術には開始時期も含めて適切な学習の時期があります。

たとえば宮大工などの技術の習得には義務教育を終えてからでは遅いものもあります。

歌舞伎などの古典芸能では、その所作など小さなころからはじめないと体得できない

ものがあります。

始めるのに適切な時期があると書きましたがただここでも例外があります。

ある漁師さんがフジコ=ヘミングウェイさんのリストの「ラ・カンパネラ」を聴き

感動し、一日十数時間何年も練習を重ねプロでも難曲とされるこの曲を

演奏するに至ったという奇跡的な話もあります。

これなどは体得のいい例でしょう。

 

基本的には「声質」「間」「呼吸」(一声二節三臓)など「生まれつきのもの」

や「才能のあるなし」は大きな要素です。

適性のないものにいくら時間をかけても大抵は時間の無駄です。

ゼロは何乗してもゼロのままです。

しかし、「あきらめない」「しつこさ」も大きな才能といえるものでいくら適性が高く

才能に恵まれていても努力を惜しみ怠れば、天才が凡才に劣る場合があります。

少しは希望が湧きますな。