死ぬ前が最大のモテ期なんて、ご冗談でしょう。 | 井蛙之見(せいあのけん)

井蛙之見(せいあのけん)

毎日、いい音楽を聴いて、好きな本を読み、ロードバイクで戯び
楽しく話し、酒色に耽り(!)、妄想を語り、ぐっすり眠る。
素晴らしきかな人生!
井の中の蛙 大海を知らず 
されど、空の蒼さを知る
(五十路のオッサン、ロードバイクにハマる。)

私の好きな映画に「髪結いの亭主」がある。

ネタバレして申し訳ないが、最後に主人公は身を投げる。

不幸せ、だからではない。

「今が一番幸せ」だから、その思い出を胸に自死を選んだのだ。

 

「誰かに訴えたい」という思いではなく、「金儲けのため」に

雨後の竹の子のごとく動画サイトなり、自己啓発サイトなりが盛んである。

非常にありがたいことだが、有名になることは常にその中の数十パーセントの

アンチに悩まされることになる。

人は他人の失敗よりも成功が許せない。やっかみという奴だ。

なので、大きく成功した人物が少ししくじったりしたらそれは大喜びである。

人の不幸は蜜の味。「綾鷹と 爽健美茶は 川の味」(あ、これは違うか)

よく言ったものである。

 

私も、もう56歳なので世間からすればあと4年で会社に残してもらうか、やめるかの選択

が迫られてくる年齢である。

「いい高校に入って、いい大学を出て、いい会社に」などというアホみたいな

「他人の価値観」に沿って生きてきた人たちの数割は奴隷人生とはいえ

社会的地位という仮初の名誉を賜りそんなに悪い人生ではなかっただろうと思う。

会社の名前を使って恐ろしいくらいの売り上げを挙げて、その割には雀の涙ほどの報酬でも

大抵の人は、世間の目などを考えてみればさぞかし誇らしいことだろう。

デラシネの私とはえらい違いである。

 

私は死んだらおしまい、という考え方である。

死ねばすべてはリセットされる。無になる。

ある日突然コンピュータが壊れるくらい、あっけないものだと思う。

人間には外付けハードディスクがあるわけではないので記憶はおろか何も残らない。

体を失えば、少なくとも本人は何も覚えていない。

家族や友人のために生きれるだろうって?どれだけ自意識過剰なんですか?

これだけ、家族葬がアタリマエの時代に、死んだあなたに何の価値がある?

「あー、やれやれこれで面倒な付き合いをしなくて済む」というのが本音ではないか。

なので、私は目標ではないが期限を切って好き放題に生きる、という道を選ぶ。

 

運のめぐりがあるとはいえ、体のあちこちがいうことをを聞かなくなる

死ぬ前が最大のモテ期なんて、ご冗談でしょう。

そう考えれば認知症になったり、体がどうにも不調でといった状態を抱えて

「必要以上に他人に迷惑をかけて生きる」など何の意味があろうか。

家人でさえ、感謝の気持ちを疎ましさが上回る。

誰も自分の食い扶持を減らしたり損をしてまで「他人のために」動くことはない。

もちろん、人生をしくじった人間に手を差し伸べる人などいるはずもない。

「水に落ちた犬は打て」(打落水狗)というのが日本のマスコミで

特に異を唱える声も聞こえてこない。

それはどんなに身近な人でも同じ。

 

どうにもやるせない気持ち、陰鬱なる気持ちになる。

とはいえ、今の日本人の多くは戦争による悲惨さを経験せずに生きてこれた。

それだけでも十分に幸せ(だった)ではないか。

「キレイなものを描こうとすれば、その十倍、汚いものを見てこなければならない。」

うろ覚えだが誰かがそういう趣旨のことをいったそうだ。

泥の中から咲く白い蓮の花の美しさよ。

日本人に、感動することに「何かが足りない」のだとすれば、

あまりにも汚いものから目を背け続けてきたせいではないか、という気もする。

きれいごとだけのたまう輩の美辞麗句の濫用には正直辟易する。

 

人生は短い。

ただそれを充実したものにするかどうかは本人の心の持ち方次第である。

いつ死んでもいいようにやりたいことはやり、思い出をたくさん身近に携えようか。

人は自分の弱さに恥ずかしさなど覚えなくていい。

もう不幸自慢なんていいですから。