にんげんだもの | 井蛙之見(せいあのけん)

井蛙之見(せいあのけん)

毎日、いい音楽を聴いて、好きな本を読み、ロードバイクで戯び
楽しく話し、酒色に耽り(!)、妄想を語り、ぐっすり眠る。
素晴らしきかな人生!
井の中の蛙 大海を知らず 
されど、空の蒼さを知る
(五十路のオッサン、ロードバイクにハマる。)

もうサラリーマンを辞めて、15年が経ちました。

この間、世の中の、技術革新やら、インフラやらずいぶん大きな変化があります。

たまたま、お客様の中に前職の同業者の方がおられます。

話をお聞きしていると、まさに「隔世の感」あり。

「同じものでもこれだけ違うものか」という思いがあります。

そういえば、囲碁だろうが将棋だろうが野球などのスポーツだろうが

時代が15年も違えば、その戦法やら、考え方、見方が変わって当然です。

特に、若い人の著しい革命的な姿には惚れ惚れします。

基本というのもあるでしょうが、「取り組み方」やら「考え方」が

同じ競技でも変わってくるのです。

「今までのやり方」などは、あたらしいものが出てくれば傍流に変わり、

やがて忘れ去られるのは自明の理です。

「走り高跳び」など、その好例でしょう。

日曜日朝の年寄りが「喝だ!」など寝言を言ってる番組がありますが

アナタの時代とはレベルが違うのだからいい加減黙ってなさい、といいたい。

もし私が前職(立体駐車装置保守点検)について聞かれたらおそらくこう答えるでしょう。

 

「わからない」

 

基本は同じというかもしれないが、特に機械はハードが変わりソフトが変われば

それまでの技術は淘汰される。これは仕方のないことだ。

同じ駐車装置とはいえ仕様が変わりすぎている、やり方が変わってしまっている、

こうしたものに対してかつて扱っていたとはいえ「俺はよく知ってるから」などとは言えない。

「昔取った何とやら」と言うものの、私にはこういった驕りはない。

昔話を語るなら結構だが、すでに自分がその世界にタッチしていないものを

昔の尺度で語るのはバカの考え。

基本や考え方さえ、時間の経過は変えてしまうものだ。


知には「暗黙知」と「形式知」がある。

料理の世界は基本、計量は不可欠。

しかし、難儀なことに「形式知」だけでは、全くわからないものがあるのだ。

「コツの科学」というか、これこそ、経験と失敗の積み重ねのなかで「覚えるもの」なのだ。

伝統とか基本は存在する。しかし、それで終わるわけにはいかない。

 

最近、図書館で、まず借りてから、ぜひ手元に置くべきと判断して珍しく本を買った。

(本の買いすぎと反省で蔵書は極力増やさないように努力している滝汗

玉村豊男さんの「料理の四面体」と水野仁輔さん「カレーの奥義」の2冊。

いわゆるプロでない方とガチンコ専門の方の料理書だ。

これらはいわば「暗黙知」をいかに「形式知」に変換し伝えようとする本なのだが

アプローチがまるで違う。ついていくのは結構大変。

最近は「こんなものでいいんだよ」というものが、どうも「最後に」目指すべきもの

だと思いだしているせいか余計に迷いが出る。

味はもちろん手技も含めて市井の中華料理屋さんや洋食屋さんが

手際よく「簡単そうに仕上げている姿」を見るたびに歯ぎしりする思いだ。

 

人間国宝の竹本住太夫師匠がこんなことを仰っています。(もう何回目ですかね、この話)

「僕が64、5でっか、その時分から浄瑠璃がちょっとわかってきましたね。」

渋沢栄一氏にもこんな言葉があります。

「四十、五十は洟垂れ(はなたれ)小僧 六十、七十は働き盛り
 九十になって迎えが来たら百まで待てと追い返せ」

 

同じ事をやり続けているようで、少しづつ見方やアプローチを変えてゆく。

新しい発見が常にある。朝比奈隆御大も言われていたことだ。

「やり続けること」ができるのも、また才能である。

 

一日一字を記さば一年にして三百六十字を得

一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う。

‐吉田松陰‐

 

 

 

 

 

 

でもね・・・

毎日少しずつ。それがなかなかできねんだなあ。⤴
相田みつを